アンベードカルとはどういう人でしょう。 |
「アンベードカル小伝」
D・S・セシャラガバチャール著 冨士 玄峰訳
【ドクター・B・R・アンベードカル】
学校に通っていた2人の兄弟が、父親に会うために出かけた。
彼らはマスール駅で降りると、1台の荷車を雇って、旅を続けた。彼らは少し遠方に向かった。
その折り、荷車引きの男は、2人の少年がマハールカーストに属することを知るに及んだ。
彼はたちまち荷車をとめるや、その一方の端を持ち上げた。
可哀想な少年たちは、ひっくり帰って地面に落ちた。
男は怒鳴りつけ、言いたいだけののしった。
問い1:荷車引きはなぜ怒ってののしったのでしょうか?
それは午後のことだった。少年たちは喉が渇いていた。
彼らは水を乞うたが、だれも彼らに呉れようとしなかった。時が立った。
依然として誰も彼らに水を与えなかった。彼らは水槽や井戸に近づくことさえ許されなかった。
弟の名前をビムラオ・アンベードカルといった。数日が過ぎた。
ある日、ビームは耐え難い渇きを覚えた。彼は井戸から水を飲んだ。
誰かがそれを見つけた。数人が寄ってきて、少年をこっぴどく打ち据えた。
問い2:人々はなぜ、少年アンベードカルをこっぴどく打ち据えたのでしょうか?
少年は散髪しなければならなかったが、牛の毛を刈る床屋でさえ、少年の髪にさわろうともしなかった。
問い3:この床屋はなぜアンベードカルの髪に触ろうともしなかったのでしょうか?
ある日のこと、少年は学校へ行くところだった。それはひどい雨降りだった。彼は一軒の家の壁によって雨をしのいだ。
その家の主婦がこれを見ていた。彼女はひどく怒った。彼女は彼を雨の中へ突き出した。
少年は泥水の中に倒れた。彼の本もすべて水の中に落ちた。
問い4:この主婦はなぜこんな無慈悲な行為をしたのでしょうか?
このようにして、繰り返し繰り返し、幼い子供は辱められた。彼の心は苦い感情の火山となっていった。
なぜ人々はこの少年をこのように虐待したのか。少年はいかなる罪も犯したりはしなかった。
しかし彼はマハールカーストに生まれついていた。
このカーストが低いもので、このカーストに生まれついた人々は、
他のカーストの人々から決して触れられるべきではないということは、
多くのヒンドゥー教徒の信条であった。
マハール・カーストの人々のように、他の多くのカーストの人々は、不可触賤民と呼ばれ、
数百年の間、不公平な扱いを受けてきた。
【不公平の終わりへの努力】
ベーダの時代にはいかなるカースト制度もなかった。いかなる不可触賤民もいなかった。
いつ、そしていかにしてこの制度がヒンドゥー社会の中に入り込んだのか、我々は確実には知らない。
誰もこの不公平を拭い去ろうと試みなかったのか。----仏陀は多くのアンタッチャブルを彼の宗教に入れた。
ラーマヌージャチャールヤ、バサベシュバラ、チャクラドハラ、ラーマナンダ、カビール、チャイタンヤ、
エカナート、トゥクラム、ラージャ・ランモハン・ロイや、その他の偉大な人々は神の子の間には何人も高くないし、何人も低くないと説いた。
マハトマ・プーレイと彼の妻は、彼らの一生をアンタッチャブルの教育に捧げた。
サイヤジー・ラオ・ガエクワド、バローダのマハラジャ(藩王)は、1883年にいちはやくアンタッチャブルのための学校を創設した。
このようにしてヒンドゥー社会の多くの思いやりのある指導者たちは、
数百年の間アンタッチャビリティーを拭い去るために努力を続けていた。
インドが自由になる前後にわたって、多くの偉大な人々が真実と彼らの信ずる主義のために、彼らの一生を捧げた。
アンベードカルはこのために苦しんだ。彼もまた、そのような差別に向かって烈しく戦った。
後に、自由インドの初代の法務大臣になった。
法律を作り、アンタッチャビリティーを拭い去るに必要な気運を創り出したことに対する名誉はアンベードカルに帰される。
【早い時期】
マハラシュトラのラトナギリ地方にアムババデと呼ばれる村があった。
ビムラオはその村のラムジー・サクパルの息子だった。彼は両親の14番目の子供だった。
ラムジーは聖カビールの教えを信奉していた。(カビールは神への献身、即ちバクティのみが大切である、と説いた。)
ラムジーはカーストや宗教の違いを信じなかった。
ハリジャン(祈り)を執り行う人はすべて神に属するというのが彼の信念であった。
アンベドカルは1891年4月14日に生まれた。彼のフルネームはビムラオ・アムババデカルといった。
アンベドカルの誕生について一つの話が語られている。ラムジー・サクパルの叔父は行者であった。
かって彼はラムジーに語った。「お前は一人の息子を得るだろう。彼は世界的に有名になるだろう。」
そうして彼を祝福した。ビムラオ・アムババデカルはその後で生まれた。彼の母は彼が丁度5才の時に死んだ。
【アンタッチャビリティーの苦痛】
彼がまだ学校に行っていた頃、彼はアンタッチャビリティーの苦痛を感じた。
彼はクラスの他の生徒と同じようには座ることが出来なかった。
彼は他人がお情けで彼のために、手に注いでくれた時にだけ、水を飲むことを許された。
そしてその時でさえ、彼は一方の手で彼の口を覆っていなければならなかった。
(先生も生徒もビムラオが水道の蛇口に触れると、蛇口はもちろん、水も穢れてしまい、みんなが飲めなくなってしまうと、
真面目に信じていたのだ。それが、不可触ということである。
なんというおぞましい観念であり、信条であろう:訳者註)
少年はどうしてなのか理解出来なかった。彼らが彼に与えたこれらの侮辱や苦痛は、小さな少年の心に非常に深い傷跡を残した。
少年は、アンタッチャビリティーはヒンドゥー・ダルマ(教法)の汚点だと感じた。
彼はアンタッチャビリティーを取り除くことを決心した。
戦いは彼の血筋の中にあった。マハールは自身のうちに兵士の血を持っていた。
父のサクパルも又、軍隊に勤務していた。少年時代からでさえ、アンベドカルは鋼鉄の心を持っていた。
かってそれはひどいどしゃぶりだった。アンベドカル少年は、どうしても学校へ行くと言った。
彼の友人は言った。「それは無駄なことだ。どうやって君はこの激しい雨の中をいけるのか?」
どしゃぶりの中を、少年は学校へ向かった。その上、傘もなしに。
【アムババデがアンベドカルとなる】
ビムラオがハイ・スクールの学生だった時、一人のバラモンの先生が、ビムラオの活発な明るい心に感服した。
彼のファミリー・ネームはアンベドカルといった。
先生はとてもビムラオを気に入っていたので、彼は彼の名前をアムババデからアンベドカルへと変えた。
ビムラオの父が二度目の結婚をした時、少年の心は変化を経験した。彼は独り立ちしようと決心した。
そして、それを成し遂げる唯一の道は良く勉強することだった。ボンベイへ行くしかない、と少年は考えた。
彼は汽車賃のためにお金が必要だった。そうではありませんか?
三日間、彼は叔母さんの財布を盗もうと試みた。そしてついに財布を盗み出した。
彼はたった半アンナ(3パイサ)がその中にあるのを見いだした。次の朝、少年は恥じた。
そして自分のやったことにうんざりした。彼はどんな困難があろうとも努力することを、そして、自分自身の足で
立つことを決心した。若いビームは非常に本が好きだったし、決して飽きなかった。
そして彼の父は借金までして、少年の本に対する渇きを満たした。
【ハイスクールで】
彼はボンベイのエルフィンストーン・ハイスクールに入学した。
一家は貧民の中の最も貧しい人々が住んでいる場所に、一軒の家を見つけた。
全家族にたった一部屋だけだった。その一部屋がただちに台所であり、ベッドルームであり、勉強部屋だった。
二人が眠るだけでさえ、充分な広さが無かった。ビームは早く寝なければならなかった。
彼の頭のそばには石臼があり、足の所には山羊がいた。父親は夜中の二時まで起きていた。
彼はそれから横になった。少年は起きて、ほやの無いケロシンランプを点し、勉強を始めるのだった。
ハイスクールで彼は一生忘れることの出来ぬ痛手を受けた。サンスクリットを学ぶことがビームの願いだった。
学校の他のヒンドゥーのものはサンスクリットを学ぶことが出来た。
しかし、彼はサンスクリットを学ぶべきではないと命じられた。
なぜなら、彼がマハール・カーストに属しているという理由で。
他の国々に生まれた人々や全くヒンドゥーで無い人々はヴェーダを読むことを許された。
誰も反対しなかった。この不公平が彼をさらに苦くした。
しかし、アンベドカルは後にサンスクリットを学んでいる。
【一つの場面】
アンベドカルは入学試験にパスした。彼はその時十七才だった。
その同じ年、ラマバイとの結婚が挙式された。
彼らの結婚式はビキュラ・マーケットの差し掛け小屋の中で行われた。
アンベドカルはエルフィンストーン・カレッジからの中間試験をパスした。
彼は一九一二年に文学士の学位を得た。
アンベドカルの父は一九一三年に死んだ。アンベドカルはそれからバローダのマハラジャの下で働いた。
彼の人生の戦いの最初の時期は終わった。第二の時期が始まった。
【アメリカにて】
バローダのマハラジャはビムラオ・アンベドカルをアメリカへ送った。
アメリカでアンベドカルは新しい人生の体験をした。
そこではいかなるアンタッチャビリティーも存在しなかった。
この雰囲気の中で、彼は友人に宛てた一つの手紙の中で、シェークスピアから数行を引用した。
”一人の人間の人生には、時折、或るうねりが存在する。
もし、人間がこの好機を用いるなら、それは彼を幸運に向かって運ぶであろう”
アンベドカルは非常に優れた論文を書いた。
そして努力によって彼の文学修士号と哲学博士の学位を得た。
彼は一九一七年の八月二十一日にインドに帰還した。
このことはアンベドカルの教育の時代において、特筆すべきことである。
彼はインドで英語とペルシャ語を学習した。
アメリカで彼は政治学、倫理学、人類学、社会学、そして経済学を学んだ。
このようにして彼は多くの学科を学んだ。
彼は博士号、学位を得た。その頃でさえ、アンベドカルは革命的な精神を持っていた。
彼は低いカーストの民衆に対する不公平な仕打ちを除き去るために固い決意をした。
このようにして彼はヒンドゥー社会のうちに革命を成し遂げることを望んだ。
しかし、ーーーこのことは重要なのだがーーー革命的に成る前に、彼はまず自己の知識を増した。
このために彼の思想は
ただの空言ではなかった。それらは知識のしっかりした基礎を持っていた。
これが憲法を起草する際に、非常に重要な役割を彼に演じさせる力を与えた。
【再び差別と屈辱】
アンベドカルはバローダで高いポストを与えられた。彼は博士号を持っていた。彼は高い役職を有した。
けれども彼がインドに足を降ろしてからは、彼はアンタッチャビリティーの刺すような痛みを感じた。
彼がバローダに到着した時、誰も彼を出迎えなかった。
なお一層悪いことには、事務所の召使いたちでさえ、書類を彼に手渡そうとはしなかった。
彼らは書類を投げてよこした。事務所では誰も彼に飲むための水を汲もうとしなかった。
彼は住むための家すら得られなかった。
彼はマハラジャに対して訴えたけれども無駄だった。ヒンドゥーでないものでさえ、彼を正当に扱わなかった。
ヒンドゥーに対する怒りの炎が、アンベドカルの心に燃え上がった。彼は数日でボンベイに戻った。
1920年、アンベドカルはより高い学問のためにロンドンへと発った。
ロンドンの大英博物館はとても良い図書館を持っていた。それはいつも朝の八時に開いた。
そして、毎日アンベドカルは決まって八時までにそこにいた。
彼は夕方の五時まで読んだ。
ロンドンで彼はアスノドカルと呼ばれる一人の学生と知り合った。彼は金持ち階級に属していた。
彼は学問に興味を持っていなかった。
アンベドカルは彼に言った。
「あなた方は多くの金を産み出したかもしれないが、しかし考えてもごらんなさい。
あなたは一人の人間として生まれて、なにを成し遂げようとしているのですか。
学問の女神はあなたが望んだからといって、いつでも来てくれはしないでしょう。
我々は彼女が来る時に彼女の恩寵に与らねばならないのです。」
1922年、アンベドカルは弁護士になった。そして翌年インドに帰って来た。
【ムーク・ナーヤク(唖の英雄)】
不可触賤民制度によって受けた屈辱を公表し、明らかにするために、そして平等の権利のために闘うために、
「ムーク・ナーヤク」と呼ばれる定期刊行物が発行された。彼はそれを支援した。この雑誌の創刊号に彼は書いた。
「ヒンドゥー社会は多くの階から成る塔のようなものだ。それは外に出る階段もドアもない。
神は生命の無い物の中にさえ存在すると信じている社会が、
その一方でそのご大層な社会の一部であるその人々を触れるべきではない、と言うのだ。」
この間、ヒンドゥー社会はアンタッチャビリティーが間違っていると理解し始める徴候にあった。
コルハプールのサフ・マハラジャは不可触賤民の自由な教育の用意をしたし、彼らの多くが仕事を獲得した。
1924年、一人の偉大な自由の闘士であったベール・サバルカルがアンダマン・プリズンから釈放された。
彼もまた”アンタッチャビリティー”を払拭するための実際的な措置を取りつつあった。
【チョーダル・タンク(貯水池)】
アンベドカルはアンタッチャビリティーの屈辱と差別の個人的な体験を持った。
彼は不可触賤民のために他人の同情を望んだのではなかった。
彼の見解によれば、他のものは不可触賤民を向上させることは出来ない。
公正は他の者から与えられることは出来ない。
差別に苦しんでいる人々自らが公正を獲得しなければならないのであった。
アンベドカルは数世紀もの間に不可触賤民たちが、個性というものを喪失してしまっていると感じた。
そのような人々を演説やスローガンによって奮起させることは不可能だった。
彼はヒンドゥー教の盲信に対して反逆することを決意した。
チョーダル・タンク(貯水池)・無抵抗不服従運動がこの決意の結果だった。
ボンベイ議会はすでに法案を通過させていた。
これに従って政府は、すべての人が共同タンクや井戸を使用することができると決定した。
この決定の基に、コラバ郡のマハード市はチョーダル・タンク(貯水池)を不可触賤民たちも使用して良いという決議を下した。
しかし彼らはそれを実施しなかった。
アンベードカルはこのタンク(貯水池)の水を飲むことによって、平等の旗を掲げようと決心した。
定められた日に、アンベードカルがまず最初に水に触れた。
それから彼に従う人々の多くが水を飲んだ。
その時まで不可触賤民は、タンク(貯水池)に近づくことさえ許されていなかった。
アンベードカルは証明したのだ。神によって創られた水は、万物のものであることを。
しかし2時間の後、アンベードカルの同志たちがベーレシュバラ寺院にまで踏み込んだという噂を誰かが流した。
他のヒンドゥー教徒たちはアンベードカルと彼の同志たちを襲撃した。
この衝突の際、アンベードカルは負傷した。この事件はインドの社会生活に新しい一章を開いた。
多くの理解あるヒンドゥー教徒たちは、これらの暴力行為を非難した。
彼らは不可触賤民が井戸やタンク(貯水池)から水を汲むことに、何ら間違ったことはないと言い始めた。
【公正を求め公正を与えるものがヒンドゥーであってはならないのか?】
不可触賤民はヒンドゥーである。
それ故、寺院の扉は彼らに開かれていなければならない。
もし、ヒンドゥーがクリスチャンや回教徒に触れることができるならば、
どうして自身ヒンドゥーであり、ヒンドゥーの神々に帰依する人々に彼らは触れてはいけないのか?
これがアンベードカルの主張であった。
彼はアンタッチャビリティーを行い、支持する人々は罰せられるべきだと呼びかけた。
或る人々は不可触賤民はいまだ平等にはふさわしくないと論じる。
ヒンドゥー教徒は言う。われわれは独立と民主主義を欲していると。
背後に押しやられた人々のすべての自由を踏みにじる人々が、どうして民主主義を熱望することができるのか?
アンベードカルはこのように論じ、これらの人々には正義と民主主義を語る権利はないと痛烈に非難した。
1927年に大きな会議があった。会議はヒンドゥーダルマにはいかなるカーストの違いもあるべきではなく、
すべてのカーストの人々は寺院において僧侶として働くことが許されるべきだと決議した。
チョーダル・タンク争議は法廷に持ち込まれた。法廷はタンクは共有財産であると判決した。
【行動の中で】
数百年もの間、屈辱をこおむってきた不可触賤民は公正を見いだすべきだ。
この目的のためにアンベードカルはいくつかのはっきりした手段を示した。
ヒンドゥーのいかなる宗派も寺院から遠ざけられるべきではない。
国会により多くの不可触賤民の代議員がいなければならない。
これらの代表議員は政府によって指名されるべきではない。彼らは人民によって選ばれるべきである。
政府は不可触賤民のより多数を軍隊と警察に採用すべきである。
【恐れを知らぬ強固な意志】
ヒンドゥー社会で苦しんだこれらの人々は公正を獲得すべきだ。
これがアンベードカルの岩のような決意だった。彼は彼のゴールに到達するためなら何人とも対決する覚悟だった。
英国政府が数名のインドのリーダーをインドの問題を話し合うために招いた。会議はロンドンで開かれた。
それらは円卓会議と呼ばれた。ガンディー・ジーもまた彼らに加わった。円卓会議の際、アンベードカルは政府に対し怒りを込めて語った。
彼は言った。背後に押しやられた部分は、英国政府の下でさえ、他の部分とともに平等を享受していない。
英国は全く他のヒンドゥーのやり方に従っている、と。 この当時はガンディー・ジーがインドにおいて大変有名なときだった。
数百万の人々が崇敬の念を持って彼の足跡に従った。
アンベードカルはいかにして公正が不可触賤民のために確保されるべきかに関して、公然とガンディー・ジーの意見に反論した。
彼は彼に正しいと思われる意見を支持した。
アンベードカルは1,931年の第2回円卓会議で、ハリジャン(神の子)・不可触賤民のために、分離選挙を確実にした。
結果的にハリジャンは彼らの代表議員を単独に選ぶことができた。
【マハトマの断食】
ガンディー・ジーは分離選挙はハリジャンをヒンドゥーから分離させるだけだと感じた。
ヒンドゥーが分割されるという大変な考えが彼を非常に苦しめた。彼は分離選挙に対抗して断食を始めた。
彼は言った。私は必要なら死ぬまで断食する、。国中がガンディー・ジーの断食を気づかった。
多くの会議派のリーダーたちが、ガンディー・ジーを救うために、アンベードカルに逢った。
「モスレムやクリスチャンやシークたちは、分離選挙の権利を獲得している。
ガンディー・ジーはそれらに反対して断食しなかった。
どうしてガンディー・ジーはハリジャンが分離選挙を得ることに反対して断食するのか。」と、アンベードカルは質問した。
「もしあなた方がアンタッチャブルに分離選挙を与えるのが嫌なのなら、他にどんな解決法があるというのか。
それがガンディー・ジーを救う要点だ。
しかし、まさに彼を救うために、背後に押しやられた人々の主張をあきらめるつもりは私にはない。」と彼は言明した。
彼は言った。「英国政府が与えたよりも、より多くの議席をアンタッチャブルのために、あらかじめ用意しなさい。
そうすれば私は分離選挙の要求を止めるだろう。」
ついに妥協を得ようとする指導者たちとアンベードカルとの間に合意が成立した。
ハリジャンのために国会に10%の議席が用意されることが決定した。アンベードカルは分離選挙の要求を取り下げた。
ガンディー・ジーは断食をやめた。
プーナ会談と呼ばれたこの有名な会談は、背後に押しやられた人々の戦いにおける別の重要なステップであった。
【われわれはダルマ(教法)を必要とする。しかしカーストイズムはごめんだ。】
アンタッチャビリティーはカーストイズムの一つの枝である。
カーストイズムが拭い去られない限り、アンタッチャビリティーはなくならないだろう。
ーーーこれがアンベードカルの固い信念だった。
彼はカーストをぬぐい去るためには、政治的な力が非常に必要だと論じた。
彼は教法(ダルマ)は人間にとって、なくてはならぬものだと信じた。
しかしながら彼は、教えの名のもとに彼らの同胞を動物のように扱う人々を憎んだ。
多くの人々は彼を批判した。いくつかの新聞もまた、彼を攻撃した。彼の生命が危険にさらされたときが幾度もあった。
なおかつアンベードカルも彼自身の経験から、将来のある人でさえカーストイズムのために、人生において向上することができないことを知っていた。
人々は彼のカーストを重要視して、そして彼を無力にする。
アンベードカルはカーストイズムと戦った。
彼は公正を獲得することがいかに難しいか、いかに多くの人々が依然として狭い心であるかを知って、うんざりした。
彼はヒンドゥーの教えそのものを放棄した方が良いに違いないのだとさえ言った。
モスレムとクリスチャンの僧侶や宣教師たちはこの宣言を聞き知った。彼らは非常に熱心にアンベードカルを勧誘しようと試みた。
彼らは逢って彼に保証した。彼らの宗教に改めたアンタッチャブルは、彼らの社会で平等な身分をきっと与えられるだろう、と。
【モダーン・マヌ】
今日、アンベードカルの名前はインドの歴史の中で、
インド憲法を創案するのに彼が演じた役割によってもまた、記憶されている。
インドは1947年、8月15日に外国支配から自由になった。
アンベードカルは独立インドの初代法務大臣になった。
全インドは同音に彼の就任を歓迎した。
彼は大臣として宣誓した。
この国は疑いもなく自由を得た。
どのようにして数クロール(数千万人)の人々のいる一つの国を治めようとするかが決められるべきだった。
どのようにして選挙は催されるべきか?人々の権利とはいかなるものか?
どのようにして法律は創られるべきか?どのようにして政府は働くべきか?
どのようにして法廷は機能を果たすべきか?
そのような重要な問題が決定されるべきだった。
そして法律が創られねばならなかった。
憲法がすべてのそのような問題に答え、そして規範を規定するのだ。
憲法を準備することは非常な仕事だった。
多くの国々の憲法についての学問、法律についての深い知識、インドの歴史についての、
また、インドの社会についての知識、異なる意見を検討する忍耐と知恵ーーーこれらのすべてがなくてはならなかった。
1947年8月29日、インド憲法を創案するために委員会が組織された。
アンベードカルはその議長に選ばれた。委員会のメンバーの1人だったシュリー・T・T・クリシュナマーチャリは、彼自身言っている。
「7人のメンバーの委員会が組織されたけれども、1人は辞退した。
別の人が彼の代わりに指名された。別のメンバーは死亡した。
誰も代わりがいなかった。メンバーの1人は政府の仕事でとても多忙だった。
他の2人のメンバーは病気のために、デリーから遠く離れてしまった。
結果として、アンベードカル博士はひとりで憲法の草案を準備するという全くの重荷を運ばねばならなかった。
彼のやった仕事はまことに立派だ。」
法務大臣としてアンベードカルは1948年11月4日に、憲法議会の前に憲法草案を置いた。
彼は憲法についての多くの質問に、申し分のない答えを与えた。
憲法の”アンタッチャビリティー”を廃止する箇所は1948年11月29日に承認された。
アンベードカルの戦いは彼自身の生涯のうちに実を結んだ。
社会生活のうちに新しい一章が始まった。
われわれはインド憲法についての討議に対する答えの中のアンベードカルの言葉を銘記しなければならない。
「インドは彼女の自由を、ただ彼女自身の人民の反逆のために失ったのだ。
シンドのラージャ・ダヒールはモハマッド・ビン・カシムによって打ち破られた。
この敗北の理由は、ただシンドの軍隊の将軍たちが、カシムの人々から賄賂を取り、そして王のために戦わなかったことによる。
プリスビラージに対して闘うために、モハマッド・ゴーリを招いたのはラージャ・ジャイチャンドであった。
シバジーがヒンドゥーの自由のために戦ったとき、他のマラータの指導者たちやラージュプートは、ムガールのために戦った。
シークたちがブリティッシュに対して戦っていたとき、彼らのリーダーは何もしなかった。
・・・・・・そのようなことが二度と起こってはならない。
それゆえすべての人々は彼の血の最後の一滴まで、インドの自由を守るために戦うことを決意しなければならない。」
1949年11月26日、憲法議会は、インド憲法草案を承認した。
アンベードカルはマハール・カーストに生まれた。彼は一人のアンタッチャブルとして押しやられた。
彼が触れることで水は不浄ということになった。
天分によって、学問と不屈の意思によって、彼は立身し、インドの憲法を創った。
そしてモダーン・マヌと呼ばれるようになった。(マヌは古代インドの偉大な立法者であった)
アンベードカルの最初の妻ラマバイは死んでいた。
彼はシャラダ・カビール博士(サビタ)と結婚した。
彼女は彼が時々治療を受けた療養所で働いていたのだった。
1951年、アンベードカルは大臣としての職務を辞任した。
【大臣辞職以後】
1952年、彼はロク・サブハのための選挙において、会議派の候補者に敗れた。国
全体が彼の敗北によってショックを受けた。
数日後、彼はラジュヤ・サブハに選ばれた。彼は政府がハリジャンに対し
て、公正を行っていないと感じたときは、いつでもそのことを鋭く批判した。
1,953年、政府は議会に1つの法案を提出した。この法案に従って、アンタッチャ
ビリティーを行った人々は罰せられるはずであった。罰金、懲戒免職、職業に
従事するための免許の取り消し、ーーーこれらが懲罰の形式であった。
【仏陀の道へと】
憲法の創案の後すぐに、アンベードカルの心は仏陀へと傾いた。彼の心は平和と
正義に渇きつつあった。彼は1950年、スリランカでの仏教徒会議に出席した。彼
の心の苦渋はますます高まった。それにもかかわらず、彼はクリスチャンやモス
レムの信仰を受け入れようとはしなかった。
とうとうアンベードカルは仏教徒となることを決意した。このことは彼の人生
で偉大な決意だった。一つの決意が、深い思索の後にとられた。
なぜ彼は仏教を選んだか?
アンベードカルは彼の友人、ダトパント・テンガディーに語った。
私は人生の夕暮れにいる。われわれの人民の上に、世界の四方からの異なった
国々から、思想の猛襲がある。この氾濫の中で、われわれの人民は混乱させられ
ているのだ。激しく戦っている人民をこの国の主要な生命の流れから離そうと
し、彼らを他の国々に引きつけようとする強い襲撃がある。この傾向はどんどん
成長している。アンタッチャビリティーや貧困、不平等にうんざりした私の数人
の仲間でさえ、この氾濫によってすでに洗い流されている。他の国々がど
うだというのか?彼らは国の生命の主要な流れから遠ざかるべきではない。そし
て私は彼らに道を示さねばならない。われわれは経済的政治的生活に、いくつか
の変革をなさねばならない。このことが私が仏教に帰依することを決心した理由だ。
数千年もの間、絶えざる流れとして伝わってきた生命の道がある。仏教はそれ
に対立しなかった。背後に押しやられた人々は、彼らになされた不正、差別に対
してたち向かわねばならない。彼らはそれを拭い去らねばならない。しかし、
アンタッチャビリティーはヒンドゥー・ソサイェティーの問題である。これを解決
するためにはバーラト(インド)の文化や歴史を損なわない道がとられなければならない。
これが彼の決意の根底であった。彼は、アーリアンが別の国からやってきたこ
と、彼らがこの国のダシャス(ドラビダ)を打ち破ったという理論を信じなかった。
ベーダの中にはこれに対する根拠はない。アールヤという言葉はベーダの中
に、33〜34回現れる。その言葉は”高貴な”とか”長老の”といった形容の意味
で使用されていた。マハーバーラタの中では、ダシャスはすべての”ヴァルナ
(カースト)”と”アシュラーマ(人生の段階)”のうちに見いだされるといわれ
ている。このようにしてアンベードカルは彼の意見を証拠だてるのが常だった。
1,956年、10月14日、ナグプールでの大きな集会で、
アンベードカルは妻とともに仏教に帰依した。
【遂行の一生】
アンベードカルの全生涯は、一つの目的のために、アンタッチャブルと呼ばれ
た人々に対する正義と平等を獲得するという目的のためにささげられた。彼はし
ばしば言った。「神はアンタッチャブルのための仕事を私がやり遂げるまでは、
私を容赦しておいてくださるでしょう。」
彼は生きながらえて、アンタッチャビ
リティーが公然たる犯罪と宣告されるのを見た。
アンタッチャブルは政治的平等を確保した。彼らは社会的平等をもまた、享受
すべきだ。ーーーこの感情が国中に育ち始めた。
早くも1951年に、アンベードカルの健康は衰えはじめた。それでも彼はなされ
るべき仕事のある間は、病気には決して負けはしないと言いつつ、仕事を続けた。
1956年、12月6日、彼は息を引き取った。何千、また何千という人々が葬送の列
を見守った。そして、彼らの悲しみと敬慕の念を表した。
50万人の人々が最後の儀式に立ち会った。
アンベードカルは非常に本が好きだった。彼は、彼の家”ラージャグリハ”の
一部を本のために割いた。彼が目の障害に苦しんだとき、彼は読書ができないこ
とで、とりわけ不幸だった。海外旅行をするときはいつでも、彼は書物を買うの
が常だった。かって彼はニューヨークで2千冊以上もの本を買ったことがある。
『アンタッチャブルズ』 『ブッダ・アンド・ヒズ・ダンマ』 『インドにおける革
命と反革命』 『ブッダ・アンド・カールマルクス』そして、『ヒンドゥーイズム
の謎』ーーーこれらは彼の著した本のいくつかである。彼の著書は、彼がいかに
広く読んでいるかを、彼がいかに知識を結集しているかを、そして彼がいかに独
自に考えることができたかを示している。
【怒りと忍耐、建設的な仕事、そして親切】
怒りと忍耐とはアンベードカルの生涯において、際立つ二つの最も重要な特質
であるように見える。このことはひとつの見地から真実である。ヒンドゥーはあ
る人々をアンタッチャブルと呼んだ。そして彼らを非常に不公平に扱った。この
ことが数百年もの間続いた。アンベードカルは彼の人々を強くするために激しく
戦った。彼は知っていた。弱い人々が必ず苦しむことを。かって彼は言った。
「犠牲にされるのはライオンではなくてヤギだ。」彼は不正を行う人々を稲妻の
ように攻撃した。彼は不正義を正すと誓った。彼はブリティッシュに立ち向かっ
た。彼は過去の犠牲であったヒンドゥーに立ち向かった。ガンディー・ジーにさ
え立ち向かった。彼は自由インドの政府に立ち向かった。彼はアンタッチャブル
に正義をもたらした。しばしば、彼自身の生命が危険の中にあった。
しかし彼は気にかけもしなかった。
彼のヒマラヤのような人柄の別の面に注目することが大切だ。彼はとても勉強
した。学校で彼はサンスクリットを学ぶことを許されなかった。しかし晩年に彼
はサンスクリットを学んだ。国民教育協会の議長として、彼はいくつもの学校とカレッジを創立した。
結果として、背後に押しやられた人々は教育を受けることができた。
彼は数日をオーランガバードで過ごした。彼はカレッジの大きな構内に、一本
の草も木もないのを見た。彼は言った。私と会いたい人は若木の苗を植えなけれ
ばならない、と。そうでなければ彼は逢おうとはしなかった。二、三日のうちに百本
以上もの若木の苗が構内に出現した。かって寄宿舎の前で彼は灌木を見た。
彼は自分でつるはしとシャベルを持って地面をきれいにし始めた。
彼の怒りの根底は親切だった。最後にブッダに”慈悲の海”へと転回したのも
不思議ではない。人と生まれてすべての人が受けて当然の尊敬と公正もなく、動物
よりも酷く生きている人々を見るとき、彼の心は同情に和らいだ。これが彼がア
ンタッチャビリティーに立ち向かった理由だ。彼は人が教法を必要とすると感じた。
「食物だけでは十分ではない。人は心を持っている。心もまた、食物を必要
とする。教法は人々に希望を与え、彼を生き生きさせる」と、彼は言った。
彼の信従者の中に一人の老人がいた。あるとき、彼はアンベードカルのところへ
やってきた。彼は神に対して誓いを立てたといった。そして彼は誓いを成し遂げ
るためにアンベードカルの許しをこうた。アンベードカルは微笑していった。
「だれがあなたに私には神における信仰がないなどといったのだね。行って、あなたが望むようにしなさい」
あるとき、ひとりの老婦人が朝の二時に、ドアをノックした。泣きながら彼女
は言った。「私の主人がひどい病気なのです。私は12時間というもの、彼を病院
に入れようと試みました。彼らは病院には部屋がないというのです。」
アンベードカル自身が彼女と一緒に行き、そして彼女の主人を病院に入れてやった。
かって、アンベードカルが校長を辞めたとき、ひとりの少年が泣きながら彼のと
ころへやってきた。彼はブラーミンの少年だった。彼は非常に貧しかった。彼は
二年間、奨学金を得ていた。彼は彼の残りの最後の一年間、奨学金をもらえるか
が心配だったのだ。アンベードカルは彼の哀しい話に悲しくなった。彼は少年を
慰めた。彼は少年を食事のために、一緒に坐らせた。それから彼は、少年に50ルピー与えた。
彼は少年の背中をたたいて、そして言った。「もしまた困ったら、来て私に言いなさい」
アンベードカル自身、健康が思わしくなかったとき、彼は彼の庭師の体調が良くないことを聞いた。
彼はもうひとりの人とともに、ステッキを支えにして、庭師に会うために出かけた。
「だれが私の家内の面倒を見てくれるだろう。もし、私が死んだら?」ーーーこの考えが庭師を悩ました。
アンベードカルは彼を慰めた。彼は言った。「嘆いてはいけない。だれもがある日、または別の日に死なねばな
らないのだから。私もまた、いつか死なねばならない。勇気を出しなさい。私が
お前に薬を届けよう。お前はきっと良くなるよ」彼は薬を届けた。
なんとその翌日、アンベードカルは睡眠中に死んだのだ。
【人中の獅子】
アンベードカルは低い中でも最も低いとみなされたカーストに生まれた。
人々は彼らが彼に飲み水を差し出すことは罪悪であり、
また、彼が荷車に腰かければ、それは汚れてしまう、といった。
しかし、実にこの人がこの国の憲法を作ったのだ。
彼の全生涯は一つの戦いだった。
すべての人が、愛と敬慕の念から、彼をババサーブと呼ぶことに何の不思議はない。
ビームラオ・アンベードカルは、
平等と正義と人間性のために戦った獅子の心を持った人だった。
決然たる闘士であり、
深い学識の人であり、
指の先まですっかり人間らしい人であった。
〔了〕 資料館TOPへ