〈座談会〉ー昭和50年(1975年)5月17日、禅文化研究所においてー
アンベードカルの仏教復興運動とインドのカースト制
出席者(発言順)
堀沢祖門 (比叡山西塔釈迦堂輪番)現三千院門跡
山折哲夫 (東洋大学講師)宗教学者・著書「ガンディーとネール」等
藤吉慈海 (所員・花園大学教授)仏教学者・論文「現代インドの仏教復興運動」「アンベードカルの仏教観」等
冨士玄峰 (神戸市明泉寺・ナグプール・ブッディスト・センター日本支部)機関紙「ナーガ」を主宰
司会・木村静雄 (禅文化研究所主事)
木村 インドはもう仏蹟巡拝の花盛りですし、インド山日本寺が建立されたりしておるわけですが、インド国内に今新しい仏教運動が起こっている。それはどういう地盤で、またどういう要求から出ているのか、また将来どうなるのか、そういった点について、ご造詣の深い皆さんから承りたいと存じます。堀沢上人には初めてお目にかかりますが・・・・。
堀沢 私は比叡山におります堀沢祖門です。延暦寺の留学生というような形で、3年間の期間をいただいて、修行を兼ねて、インドの実地見学ということで参りました。最初はヒンズー教の方の世界を探ったりなんかしておりましたけれども、仏蹟巡拝を契機として、ラージギルにおける日本山妙法寺の仏舎利塔の建設というお仕事に非常に心打たれまして、それに参加させていただき、そのお仕事の完成するまで共に生活しました。その時にちょうど、佐々井上人といっしょに仕事をした仲間として、彼とは非常にご縁が深いのです。彼は自分たちの仕事が一段落してから南方の方へ移りましてね。そして新しい使命のもとに運動を展開していかれたわけです。その後また、1年ばかり経ってから私たちはナグプールで再会して、
彼の要請で三ヶ月半ばかり一緒に布教生活にたずさわってきました。まあそういうことから、彼の最高の外護者であるマナケさんという家族の一人息子であるサンガラトナを、比叡山の留学生という形で受け入れるということになってきたわけなんですけれども、そういうことを通して、3年間ばかりインドにおりまして、その後もまた延暦寺の巡拝団とか在家の方々をご案内して、ほとんど毎年インドに参っております。そうしてインドのナグプールの人々との交流をやっておるわけです。
仏教復興の歴史
山折 私なんかが考えているのは、日本の仏教界とですね、それからインドとの関係が一つ非常に重要な問題としてあるだろうと思うんですが。明治以降いろんな学者とか探検家とか旅行者がインドを訪問してですね、今日におけるインドには仏教はほとんどすたれているのではないか、という反省がずっと語られて来たような気がするんでありますが、第一番目に先鞭をつけたといいますか、日本の仏教者として最初にインドの仏教の復興を念願された藤井日達上人のお仕事というのは、先駆者として非常に大きなものがあると思います。だいたい、これが昭和6年だったと思いますけれども、ただやはり日蓮宗の教義というものがどれだけインド人の間に理解されたかということは
非常に問題があるだろうと思います。しかしとにもかくにも、昭和6年以降今日まで藤井上人を中心とした日本山の西天開教 の仕事は一つの大きなものであったと思います。ところがアンベードカとの連関でいますと、問題になってくる
のが戦後1956年の集団回宗、そこで初めてインドのアンタッチャブル(不可触)と言われていた、紀元2000年来インドの社会の中でずっと差別を受けてきた人々が、差別を撤廃する運動の一環として、仏教によって救われようという、こういう運動が非常に強くなってきたんじゃないかという感じがします。その指導者がアンベードカルで、急激にインド人の間で新たに仏教徒が生まれたということで、ネオ・ブッディストという呼び名が作られるわけですけれども、それ以後日本仏教界などもインドにおける新しい仏教運動として関心を持ち始めたという気がするんですが、最初にそういうインドの新仏教運動を紹介されたのは藤吉先生だったと思います。
藤吉 う〜ん、多少の異論があるのはね、新仏教運動が起こりました基盤にね、やはりもう一つ大菩提会の運動があったということ、これは無視できない。日本仏教界とインド仏教復興運動との交渉も、やはり近代になってからは、ダルマパーラの日本訪問ですね。これが最初です。ダルマパーラ、これはセイロンの人ですが、彼がインドへ行って、そしてブダガヤで日本から言っていた雲照律師の弟子の釈興善グナラタナと出逢うんです。そして仏蹟が非常に荒れているもんだから、一緒に泊まって2人とも夢を見て、ここを復興しなくちゃならないってことを誓い合ったということを書いてますね。
それから彼は1889年(明治22年)に、神智協会のオルコット大佐とともに来日して、オルコット大佐が日本中を演説して廻るわけですわ。1893年にはシカゴで開かれた世界宗教者会議に、唯一のテーラバーダ仏教徒代表として出席しまして、その時釈宗演なんかと逢うわけです。帰りにホノルルに寄ってフォスター夫人の帰依を受けて、10月の末に横浜に来てますね。その後も数回日本に来てますですね。それから日本から仏像を贈ったり、サルナート(鹿野苑)にお寺を建てた時に、野生司香雪さんが行って仏伝の壁画を描くとか、そういう助力はいたしましたが、ダルマパーラ自身も大菩提会を結成して、雑誌の発行やウェーサカ祭の復興や仏蹟復興運動をやる
わけです。それにある程度は日本も協力するんですけれども、まぁ大したことはしていません。それから大菩提会は先年亡くなったバリシンハ氏に受け継がれて、かなり強固に世界中に大きな影響与えているわけですね。だからなんといってもインドの仏教復興運動は大菩提会が一番中心なわけで、しかしこれはだいたい東インドで仏蹟中心ですね。もちろんインド各地に支部を持ってはいますが、それに対して、今度のアンベードカルの方はボンベイ、ナグプールあたりを中心として、西から中部インドに亘るわけですね。お互いに交渉ありますけれども。
堀沢 大菩提会が設立されたのはいつごろでしたか。
藤吉 セイロンのコロンボに設立しましたのが1891年ですね。シカゴへ行く前ですね。それから翌年にカルカッタにも作ります。両方に本部があるわけです。
堀沢 まぁインドにおって考えたことですが、日本山に2年ばかりご厄介になって一緒にやっておったんですけれども、不思議に思うのは周辺の土地の人たちで仏教に改宗する人がほとんどいないわけですね。長い間、50年近くも日本山はインドに入っておりまして、営々としてご苦労なさっておることを眼のあたりに見ながら、まだ民衆の宗教を変えるということにはぬ。ラージギルでも仏教徒はほとんどいないわけです。日本の坊さんを尊敬はしていますけれども、 だからといって宗教を変えるということはないわけですね。それを考えると、ヒンズー教というものがいかに根強い基盤を持っているか、ということを感じさせられたわけで、やはりインド人の中に仏教が蘇るという形で、インド人自らの信仰として新しく火を吹いたのは、どう考えてもアンベードカルの力によるものだと思うのです。外部から入って行きましても、結局マハボディー大菩提会でも外からの姿勢では厚い壁を突き破れなかったんではないか。まぁそういう感じがするわけなんですがね。
山折 確かに大菩提会の仏教復興というものも非常に大きかったと思うんですが、それに後続するような形でやられた藤井上人の西天開教のお仕事もですね、純粋に宗教的な観点からの運動だったっていう点では共通していると思うんですが、アンベードカルの仏教復興運動っていうのは、私はやはり純粋に宗教的な運動だけではないと思うんですね。地盤は非常に共通する同じ伝統に立ちながら、質的に違った運動であるということ、非常にそこを強く感じるわけです。というのは、アンベードカル自身が政治家として出発し、反英独立運動の過程ではガンディーと一緒に仕事をされたわけで、しかしその中でもハリジャン(賎民)の問題では鋭く対立するわけですね。ヒンドゥーの被抑圧階級に対するガンディー式の考え方と、それからアンベードカル式の考え方が、全く水と油のように対立しているというところにですね、今日の仏教徒運動っていうものが非常
に難しいところに来ているような感じがするわけですね。一方で宗教的な運動であると同時に、もう一方で極めて政治的なスローガンをかがげているっていうことがありまして、それに対して日本の仏教界は、戦後のアンベードカル中心の仏教徒運動に対して、宗教的な水準でだけ接しよう、あるいは理解しようという姿勢が非常に強いと思いますね。僕はそれはそれで第一義的に重要なことだと思うんですが、しかしそればかりで見ていきますと、何か非常に楽観主義的ですね。逆に仏教徒になることによって社会的に差別がますます強くなっていくという状況が一方にあるわけです。その辺を見落すとちょっとまずいんじゃないかって感じを、私は個人的に持っているわけです。彼の仏教が政治運動じゃないかというのは、非常に短時日の間に、30万程度の改宗者があり、今日アンベードカルさんのY・B・アンベードカルがやっておられますインド仏教協会の発表によりますと、50万人と言っているんですね。たかだか20年近くの間に3、40万から4、50万っていうのは純粋に宗教運動の成果であるとは私はとれないわけですね。
アンベードカルとナグプール仏教
冨士 ただ、アンベードカルが仏教を選んだという過程は、少年時代にケルスカルという人に仏陀の伝記をもらった、その頃から何か仏陀に牽かれるものがあったと言っています。しかし、まず自分が世に出ることに力点を置いておったもんだから、とにかくものすごい猛勉強で、奇蹟的に高度な専門の学問、法学を治めたわけですね。けれども、いつもそこで考えておったのは、自分たちが置かれた差別的な環境を、何が産み出しておるかということを考えた場合に、やはりこれはヒンドゥーの宗教の信条、教義にしかないということを常々感じておったと言うんですね。カーストヒンドゥーと同じように、彼の周囲の人々もヒンドゥーとされながら寺院からは 閉め出されるし、水飲み場も差別されておる。それからヴェーダ(聖典)も読むことができない。ヒンドゥーでありながら、同じヒンドゥー教徒、同じ信徒を差別していく、そういう教義は絶対に許されない、ということは彼にはもう解かり切っておったわけですね。ただ、それを打ち破るためにどういう方法があるかということを考え続けて、おそらく社会主義、共産主義の思想もアメリカやイギリスでの留学中に詳しく知ったと思うんですね。アメリカでは特に黒人問題を通じて具体的に知ったでしょう。けれども、結局は仏教を選んだということは、これはアンベードカル自身の言葉にもありますけれども、それ以前に回教とかキリスト教などから改宗の熱心な誘いがあったん ですね。彼の友人で被抑圧階級の解放運動のリーダーたちも多くはキリスト教に改宗したり、イスラム教に改宗したりする。だけれどもアンベードカルはインドの文化とか伝統を考えた場合ですね。これからのインドを統一し、また自分たちの階級を含めて解放して、それから大きな一つのインドということを考えた場合には、外国の宗教、キリスト教とか回教じゃダメだ、と思ったんでしょうね。ですから単に四姓(ヴァルナシステム)を打破するというだけを考えて仏教を選んだんじゃないと思うんですね。それはもう彼の仏教に対する信念というのはちょっと飛躍し過ぎるぐらいです。例えば、人々が本当に民主主義というものを確立するためにはですね。まず政治 的な平等、経済的な平等が達成されてなかったらいつも足をすくわれてしまう。壊れてしまう。だけれどもそれを達成するのは仏教だけである、とすぐ飛躍するんですね。ちょっと飛躍しすぎるぐらいの強烈な信念を持っておるわけです。ですけれどもそれはやはり長い間、少年時代から味わった屈辱ですね。そういうものからずうっと1956年に至るまでの長い経過の間に、彼はずっとそれを考え続けていたと思うんですね。ですからどうもインドの宗教事情を紹介される方々が、アンベードカルを菩薩と仰ぐ仏教徒たちは政治的だということを強調されるむきがあるんですけれども、現地へ行ってみるとですね、全く素朴なんですね。素朴すぎて教義も何もはっきり言ってないような状態です。ただ我々を平等に扱ってくれるという.ロードブッダを拝み、それから自分たちを解放してくれたアンベードカルを菩薩として尊敬する。ただそれだけですよ。しかし政治的な問題になると、なるほど中央政府に対して反抗的な姿勢をとらざるを得ないというのは、これは現在置かれた立場というのがまだまだアンベードカルが理想としたような、憲法にうたったような、法の前の平等は達成したけれども、社会的な平等、そこまではまだまだ程遠いという感じですから、これは致し方のないことだと思うんですね。
山折 アンベードカルの指導の下での、仏教への集団改宗ということで、私なんかは、少なくとも2つばかり問題点を感じますね。その一つは原則的なことですが、宗教的改宗というのは、本来個人的な水準で行われるべきものであって、形式的に集団改宗の形をとっても、そのうちの一人一人が心の内で主体的にそのこと納得しているということが前提になるべきではないかということです。この点が実際問題としてどうなっているのか。それから第2の問題は、これはアンベードカル個人の改宗の動機に深く関わっているのですが、彼の主唱する不可触賎民の解放という政治課題が、いわゆるヒンドゥー教的共同体の中では解決されないという絶望感、そして、そのような伝統的なヒンドゥー教的共同体の根本的な構造に手をつけようとしない会議派政権に対する失望―そういう政治的な挫折にかかわっているわけで、そこで彼は、四姓平等という理想を観念的な水準で説く仏教に傾斜していったのではないかということです。
しかし、それならガンディーの言うハリジャン(不可触賎民)解放運動が成功したかというと、そうではない のであって、アンベードカルのガンディー批判もまさにそこにこそ向けられたわけですけれども、しかしアンベードカルがこうしてガンディーを批判したのは、あくまでも「政治的に」そうしたので
あって、政治的にヒンドゥー教社会を批判したということです。ところが会議派に属する政治家として、そうすることが無効であると語って、彼は会議派を脱党して、仏教に改宗した。そして、そういう立場から再び不可触制という社会的不平等の問題を批判することになったわけです。私は、カースト制不可触性の問題は、宗教的な問題であるよりは社会的な問題であると思っているのですが、仏教改宗後のアンベードカルの批判の方式は、結局のところ、仏教にによるヒンドゥー教批判という形をとってしまう。
社会的不公正の問題を宗教思想の対立の問題に解消してしまう危険があると思うんです。
ナーガの自覚と竜宮伝説
冨士 アンベードカルが改宗式の翌日に、同じ改宗広場ディキシャブミで演説をやりまして、その中で言っておりますのが、自分たちはナーガ族の末裔だというんですね。その昔、釈尊在世当時の初期の僧団が拡がっていく段階で、重要な役割を果たしたのがナーガ族といいますか、非アーリアンですね。だけどもその当時はアーリアンが非アーリアンを絶滅するために、どんどん森林を焼き払って、森林の住民たちを南方へ追いつめて行った。けれどもたまたま絶滅を免れて生き残ったナーガの末裔がわれわれで、マハールだとかマータンガとかいわゆる賎民だと、こういうんです。今のナグプールという町が置かれておる地理的な条件が、演説の中で言うておるんですが、町の中をナーグ河という河が流れている。つまり竜河ですね。その竜河の流域に、昔はナーガが住んでおったんだと、そして、それらは仏教徒であったと言います。一方、アショーカ王のお妃でビデーシャという、そのお妃が仏教徒であって、アショーカ王に対して不殺生、無益で残酷な殺戮をやめなさいといさめ続けて、とうとうアショーカ王が仏教徒に改宗したわけですね。そのおきさきの出身地がサンチーの辺だとされておりますね。サンチーとナグプールは、ほんの眼と鼻の先ですよ。あの広いインドから見ればね。ボパールとナグプールですから。汽車で4、5時間でしょうかね。ですから歴史的に見ても仏教と無縁の土地ではなかったわけですよね。
ナーガ族というのは仏教史の中で重要な役割を果たしてきた。そのナーガ族の末裔という意識があって、むしろなるべくしてなったという感じですね。で、更にナーガセーナ(那先比丘)とかナーガルジュナ(竜樹)とか、ナーガの名前を冠した偉大な坊さんが沢山おる。伝によるとヒマラヤのバラモン出身だとか、南インドの出身だとか書いてありますけれども、どうもそうじゃなくってですね、むしろナーガの本拠地といいますか、何かそういった場所があったように思うんですね。アンベードカルの演説の中でも、なぜ私が改宗式にナグプールを選んだかというと、人は色々と憶測するけれども、ほかの理由は全然ないんで、ナーガ族由来の町だからここを選んだのである、
ということをはっきり言っておりますね。
堀沢 ナーガの話が出ましたからちょっと私が見聞きしたところ補足しますと、ナグプールのナーガは日本では竜蛇とか象とか訳されるし、プールというのは場所とか町とか言う意味でしょうからね。このナーガの町はデカン高原、ちょうどインドのど真ん中にあって人口7、
80万だと言われてかなり大きな街なんです。実はナグプールの東方にですね、自動車で2時間ぐらい行きますとラムテークというところがありまして、あの辺には珍らしい山があるんです。高い山じゃなくてせいぜい150メートルの高さぐらいのかなり長細い山があります。で、その山の洞窟中にですね、今は
今は洞窟寺院のようになっていますが、ナーガルジュナの修業した場所と言われる祠(ほこら)があるわけです。これを土地の仏教徒の学者で、まあ民間の学者でしょうが、色々と歩き回ったり、文献を探し回ったりして研究している人たちが何人かいるわけです。で、佐々井上人にいろいろな資料を持ってきては説くわけですね。私はその人たちと一緒に現地を訪れまして、その山にも登り、ナーガルジュナのいわれのある祠にも入ってみたりしましたが、その山の上に現在はラーママンデル、ラーマの寺があって、ラーマってのはラーマヤーナで有名なインドで最も民衆に親しまれている神様、これはまあ日本に伝わって桃太郎の原型になっていると思うんですけれども。ま、ヒンズー教の寺なんです。これがですね、
昔仏教寺院であった証拠に現在の寺の土台に使っている石に、皆ダンマチャクラ(法輪)があるんですね。その多くは塗り消したりしないでそのまま横倒しにして、土台石に使っているとか、いくつもあるわけですね。彼らが言うにはセイロンに仏教を伝えたマヒンドラとサンガミトラが途中立ち寄って住んでいたと、なるほどそれらしい石像もある。それからもう一つの説は、学会では問題になってませんけれども、いわゆる「大唐西域記」に出てくるダクシュナ・コーサラ、南のコーサラという国があるんですね。コーサラと言えば北のいわゆる舎衛城のあるコーサラがまず浮かびますけれども、もっと南方にもう一つのコーサラという国があった。7世紀に訪れた玄奘三蔵の時にそれがまだあったと言うのです
。ただ「西域記」はナグプールあたりだとは言っていないんです。現在では記述されておる地名がよくわからないわけです。それはもっと南だろうという学者の説が多いんですけれども、西域記の記述では、王様が山全体を抉り抜いて、そしてその中に七堂の楼閣を立てて龍樹菩薩ナーガルジュナに供養したと書いてあるわけです。ところがラムテークの土地の伝説にですね、その山は中は皆抉られた寺の跡であると、そしてそれに至る道も現在は皆閉ざされておるけれども、いくつかはほこらとしてあるんだというのです。ただし、それは今日立入禁止になっておって、大きな石がかぶさっちゃって、また政府の許可がなければ入れないんだというような話でしたけれども。私は半信半疑でした。ところが最近、今年の正月ですが、またナグプールに参りまして、その時土地のナグプール大学の学者たちが5、6人佐々井さんのそばに集まってきまして、ラムテークの山々にあるのはナーガルジュナの遺跡ではないかというような視点から学術的論文を作成しておるんですね。
充分聞く暇がなかったんですが、これまで佐々井さんが調べていたことがかなり学術的な裏付けを伴って、最近は成果を上げつつあるんだなあという印象を私は受けて帰ってきたわけなんです。
アンベードカルの仏教観とカースト制
木村 私どもが知りたいのはアンタッチャブルの人たちの差別をなくするということにおいて、仏教の教理なり信仰がどのように把握されておるか、つまりアンベードカルの仏教理解ということになるわけですが。
藤吉 改宗の1つ理由をね、1951年のマハボディー」のウェーサカ特集号に寄稿してるんですよ。「現代社会に利用されうる宗教は、ただ仏陀の宗教だけである。もしも仏教が現代社会に利用されないなら、現代社会は滅びるだろう。他のいかなる宗教も仏陀の教法より以上に知的科学的に現代人の心にアピールするものはない。仏教が一番科学的で合理的な宗教だ」と。しかし、まあさっきから出てますように、彼の仏教の理解というものに対してはかなり批判が出てましてね。解放のために仏教の教理をある程度変えてもいいと、民衆解放のためにアピールするような仏教でなくてはならないというような考えですね。だから一番骨子になって批判されるところはですね、「ダンマ」
(法)というものの解釈がですね、わかりやすく言えば社会関係、人間の相互関係においてダンマをとらえていこうというのです。仏教の個人的な解脱の真理ではなくて、社会関係において、共存するとか、お互いに助け合うとかいうことにおいて理解している。
それはおかしいとテーラバーダのお坊さんからの批判があるわけですね。それはしかし、彼は社会運動家だから、仏陀のダンマが広がっていく、ダンマなしには社会は滅びてしまう、という考え方ですね。だからお互いに平等に助け合っていくという教えがダルマの教えなんだというわけです。もう一つは四聖諦の教えもね、それは仏陀の教えには違いないんだけれども、根本的な教理ではないんじゃないかという疑いを起こすわけです。
何故かと言えば苦・集・滅・道の苦諦をあまり強調すると、圧迫された階級の連中は希望をなくしてしまう。それから業説・カルマの考え方もあまり強く言ってはいけない。これを言えばどうしても宿命的にとらえてしまうからといっています。
木村 それは現代の日本の仏教会でも、しばしば仏教教理を現代的に理解しようという試みが行われてますね。
藤吉 解放運動に都合のいいところを特に強調して、都合の悪いところはなるべく言わないで行こうとしています。彼は大菩薩と尊敬されているだけに、彼自身の仏教のそういう考え方というものはやっぱり上座仏教的ではないわけですね。ある意味では大乗仏教的だと言っていいわけです。マハボディー協会のダルマパーラも、大体は大乗仏教に非常に好意的な人なんですね。アンベードカルもそうなんで、テーラバーダの比丘は威厳だけ保っておって、実際は非圧迫階級を救済指導するような熱意を持っておらないと言っています。アンベードカルもバリシンハに手紙を出して、大菩提会から比丘をよこしてくれと言うんですが、誰も行かないんですね。だからアンベードカルももうそんな比丘はダメだというんですね。だから逆に比丘たちから、お前の仏教の理解は間違っている、彼の主著の『ブッダ・アンド・ヒズ・ダンマ』は「ブッダ・アンド・アンベードカルスダンマ」なんて言われたりして(笑)
木村 いわば異安心ですね。(笑)
藤吉 しかしながら、これはアンベードカルの1つの見識であって、これだけのことを言える人は少ない。その点高く評価すべきでしょう。
冨士 今日の我々の世代から思うと、本当に共感を呼ぶわけですね。で、彼が「ブッダとその宗教の将来」 に書いてますけども、3つ提言してましてね。まず世界共通の仏教徒のバイブル、聖書を作ること。第二に、先ほど言われたように、どうしても南方のビクシュサンガ(僧団)が怠け者の巨大な軍隊である、だからまずピクシュサンガの意図と目的を機構において改革する。それから第3に、世界の仏教徒ミッションを設立するということ。この3つです。で、彼のそういった仏教観に対して、今までテーラバーダ(小乗上座部)の人たちによって批判されてきたということは、それに共感する人たちがインドにいなかったということですね。逆に
日本の我々のような大乗の国の、しかも私など特に共感するわけです。それからアンベードカルが常に考えておるのは、決して仏教だけを唯一最高と、まあ言えば仏教のみが人類を幸せにするとは考えてないようですね。一応自分が選ぶのはインドにおいては仏教が一番適しておるし、近代の科学精神と矛盾しないということで、まず最高に評価したわけですね。そして、共産主義・社会主義に対しても一概に否定的じゃないです。「ブッダ・アンド・カール・マルクス」などの1部を読んでもですね。むしろ法の前の平等を達成して、これから社会的な平等を達成するには、やはり社会主義的なやり方は必要である、けれどもそれにはいつも害毒といいますか、中毒をともなう。
だから共産主義、社会主義の中毒を中和するといますか、解毒剤の役割を果たすのは仏教だと、いうような言い方をするわけですね。ですから、どうも日本におけるアンベードカルの宗教観に対する評価は、やはりインド内での一方的な評価をそのまま受け継いで言うておるような感じがありますね。
山折 私は思いますのにですね。今日インドの苦悩の最大のもの、それは伝統的に長い間続いてきたのですけれども、やはりカースト制、複雑な階級差別制にあると思います。とにかくカースト制というのは、人間を差別する体系として、他に類を見ないほど徹底したものですね。どうしてこんな制度が出来上がってしまったのかということが、これまた大問題で、見当もつかないのですが、そういう 形で人間のエゴイスティックな欲望が最も赤裸々に露出してしまっているような感じがします。その点では、ガンディーもアンベードカルも、その解決のための同じように苦難の道を歩いたんだと思います。
このようにカースト社会の矛盾というものを、例えば仏教というような宗教思想によって解決することができると思うほど、私は楽観的にはとてもなれませんね。この問題に比べては、インドの貧困とか、食糧危機とか言う問題は、決してそれを軽視するつもりはありませんけれども、それほど大きなものと思えない程です。むしろ、今日のインドの困難の一番根底的な原因になっているのが、このカースト制だと思えるくらいです
アンベードカルの仏教復興運動とインドのカースト制 ( 承前)
註:
カースト インド独特の封鎖的な身分階級のことである。インドではヴェーダ時代以来、
出生によって社会的身分や職業の一切まで、カーストの区分
(それは宗教上の浄と不浄の考えにもとづく)によって規定づけられ、
特異な社会階級制度を構成していた。
古代社会においてはブラーフマナ(司祭)、クシャトリア(王侯武士)、ヴァイシャ(農工商庶民)、
シュードラ(奴隷)のいわゆる四姓(四種の族姓)の別があったが、
次第に副カーストの分岐、雑種階級が生じ、宗教的・歴史的・社会的に複雑な特相を呈し、
種族・宗教・職業等によって分岐して現在ではその細分の数は、2千ないし3千に及ぶと言われる。
異なったカースト間の食事・通婚を禁じ、きわめて複雑で、厳格な風習・戒律を待つ。
カースト外の最下層階級として不可触賎民(パリア)がある。
カースト制度は現在のインド共和国の憲法によって否認されているが、
実際問題として農民にはまだ残存していて、
インド民族の近代化をはばむ最も大きな障害となっていることは 事実で、
カースト問題の解決が、インド国家の向上と、国民の繁栄を握る鍵である。(仏教語大辞典)
四姓平等 「是の如き四姓は悉く皆平等なり、何の差別かあらん。
当に知るべし、大王よ、四種姓は皆ことごとく平等にして、勝如差別の異あることなし」(雑阿含経第二十)
ビムラオ・アンベードカル インド・ラトナギリの賎民出身、秀才の聞こえ高く
1913年米国コロンビア大学に学ぶ。
ボンベイ高等裁判所判事・ボンベイ州労働大臣など歴任の後、
ロンドン大学留学、1947年ネール首相の下に初代法務大臣に就任。
憲法制定に当たる。
1950年(59歳)スリランカで開かれた世界仏教徒会議に出席、
1951年大臣を辞職、
1956年(65歳) 10月14日、ナグプールにおいて大集会を開き仏教に改宗を宣言、
同12月6日急逝。
改宗の意義
木村 一体、私どもが一番関心を持つのは、インドで一番大きな社会の溝になっているカースト制というものに対して、
アンベードカルがそれを打破する力として仏教を取り上げ、それがどの程度成功したかですね。
ヒンドゥー教から改宗して仏教徒になったということで、階級差別の溝を、壁を、どの程度乗り越えたか、
あるいはその見込みがあるかということです。
冨士 そのカースト制のことをアンベードカルは「唖の英雄」ムーク・ナーヤクという雑誌の創刊号で次のように言ってるんです。
「ヒンドゥー社会は多くの階からなる塔のようなものだ。それは外に出る階段もドアもない。
神は生命の無いものにさえ存在すると信じている社会が、
一方で、そのご大層の社会の1部である その人々に触れるべきではない、というのだ・・・・。」
つまりそれぞれが閉ざされた社会であって、それぞれの階層から上に行くことも下へ行くことも互いに許さないわけですね。
そこにあるものは「穢れ」という強烈な観念ですね。
例えば便所の作法にしてもですね。私どもも滞在中は、左手で水をすくって直接洗う。
すると嫌でも左手は不浄、右手は浄なんだなあと、しみじみと思いますからねえ。(笑)
慣れればさっぱりして気持の良いものですが、やはり左右の手に浄、不浄を見るというこのことも、
大げさに言えばずいぶん穢れたという観念を助けているように思いますね。
それからさきほど(前号)山折先生は悲観的な見方をされましたが、私はそう思いません。
仏教を信ずるということで、人間としての自覚を促したということですね。
アンベードカルは、行きづまってというか、政治的には如何ともしがたいということで悲観して仏教を選んだというのではなくて、
むしろ人は肉体が食物を必要とするように、その魂も糧を必要とするんだ、
だからブッダ・ダルマこそ、人が人として生きる時、その人を生き生きさせる糧だと強調してるんですね。
彼の対象はいつも民衆です。だから言葉はいつも簡素なんですが、そこでいつも強調しておることは、
民衆が長年の差別によって無気力になり、全く自分というものを無くし、個性を無くしている。
そこにいくら外から制度を、憲法とか法律によって保証したり、又、ヒンドゥー法を改正したりしても、
肝心の人間に 自尊心が生まれてこない以上は、どうしようもないというのです。
だからこそ彼は一応、憲法制定と、ヒンドゥー・コード・ビル(インド法典議案)つまりヒンドゥー法改正案によって、
ひとまずそこで法の前の平等は達成したわけですよ。
彼が憲法草案を起草して、制憲議会に提出してちゃんと認めさせたということは大変な業績だと思うんですね。
ですから法の前の平等は達成した。では、これからはどうするか。
そこで更に社会的な平等の達成に向かって新たな戦いを始める。
その場合にまず必要なのは外に向かって訴えることよりも一人一人が自覚を持つことです。
それがために、彼は長年、改宗の何年も前から、セイロン(スリランカ)に行ったり、
ネパールの仏教徒会議に出席 したりして、
私はヒンドゥー教徒として死ぬことはないであろうと言ったりしています。
ですから彼は時期を待っておったんだろうと思うんですね。
ヒンドゥー法改革案を提出するときは、決死の覚悟で、政治生命をかけて提出したにもかかわらず、
何度も出した挙句、一応通ったけれども、修正され骨抜きにされて、事実上失敗してしまった。
市民法の制定だけでなく、カースト制の根強い基盤の現れである慣習法をも改正しようとしたんですから、
実に革命的であり、そりゃあ大変なことですよね。
インドは独立以来、セキュラー・ステート(世俗国家)を目指すと言っているんですから、当然のことともいえますがね。
つまり不可触差別行為を行えば、免許停止とか色々な処罰を受けなければならない 、
歴然とした犯罪行為として裁かれることになる訳ですよ。
木村 ヒンドゥー・コード・ビルというのはどういうものですか。
山折 いわゆる市民立法ってやつと、慣習法と、両面に作用できるんですね。
例えばアンタッチャブルの女性とバラモンの男性と結婚する場合、これは慣習法では許されない。
ところが裁判所へ行けば許される。法の前の平等は裁判所へ行けばいいわけです。
だけれどもその二人は共同体から追放されるわけですね。
法の前での平等の市民法はあるけれども、しかし現実には慣習法に縛りつけられている。
冨士 まあなんていますか。近代のそういう人権獲得の歴史をその通りのコースで辿っておる訳で、
彼にとっては決して挫折ではなかったと思うんです。
藤吉 まぁ挫折と言えば、彼自身早く死んだということだねえ。
冨士 (興奮気味に)そうです。それがいちばん残念なことです。
アンベードカルの死
藤吉 彼の死については、お弟子のボラーレ博士はやはり暗殺だといっている。
今でもそう信じているんですよ。仏滅2500年を記念して、1956年10月14日にナグプールで改宗宣言をやって、
それから11月15日のネパール、カトマンズにおける世界仏教徒会議に出てるんですね。
これには宮本正尊博士も出席して彼に逢っておられます。そこで演説をやって、
その時たいへん疲れていたようですね。それから引き続き仏跡巡礼をしている。
12月5日夜遅く、彼の仏陀伝である(「ブッダとその教え」の序文を書き終えて、
翌朝お茶を持っていったサーバントが彼の死んでいるのを発見した、と 書かれてますね。
堀沢 私がね、現地で聞いた話はこうなんですよ。
これはまあ仏教徒たちが感情的になってそういったことを言っている節もあるかもしれませんがね。
要するにバラモン出身であった奥さんが強要されて、やむにやまれず毒をも盛ったっていうんですよ。
先妻を亡くして再婚した奥さんで、女医さんだったと言いますからね。
藤吉 その頃インドに春日井博士に聞いた所、彼の遺体を夫人の到着以前に火葬に附してしまったので、
その死因が確かめられず、色々問題となったと言ってましたね。
冨士 ダナンジャイキールの「ライフ・アンド・ミッション)では、やはり奥さんが発見してますね。
「ベッドのそばには料理人のスダマがいつものように魔法瓶に入ったコーヒーとお菓子の皿を用意していた。
過去8年間というもの、アンベードカルの生命を救うために懸命に努めてきた女医である妻も、付き添いのものも、
ベッドの後に死神が潜んでいようとは思ってもいなかった・・・」 で、その翌朝には既に冷たくなっていたんですね。
その前夜も、大変暗示的なんですが、召使いのラットゥーに不自由な足を揉んでもらいながら、何か小声で歌っている。
良く聞くと、「ブッダン・サラナン・ガッチャーミー」(南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧)つまり三帰戒ですね。
さらにそのレコードをかけさせて、しみじみと聞いていたっていうんです。
藤吉 まあ、とにかく急死ですからね。ちょっとわからない。そういう問題を残してますね。
佐々井上人とナグプール仏教
木村 それでは最後に佐々井上人の活動について具体的に1つ。
堀沢 まあナグプールでの私の見聞に限定しての話ですが、
アンベードカルが改宗宣言をしてから不幸にして2ヶ月足らずで亡くなっておる。
その大きな出発点に立った段階で死んでしまったのですが、
彼の死後も、彼の教えを信ずる仏教徒がどんどん増え続けていった訳です。
今日20年近く経っていますけれども、佐々井さんはアンベードカルの没後10年足らずの時に入って、
それから早8年目ぐらいになってますか。彼は最初は別にアンベードカルの運動に合わせるつもりはなかったんです。
率直に言えば、むしろ日本山(妙法寺)の先駆という自覚を持って乗り込んで行ってますからね。
そこで彼流に 現地に全く入り込んで布教し供養を受けているうちにだんだん現地の言葉、事情もわかって来るにつれて、
人々の人情といいますか、気持ってものを理解するようになっていったと思うんですね。
だからその頃から彼には多少、日本山から一歩離れたところが出て来たと思うんです。
彼はもともと日本山の人ではなく、霊鷲山で宝塔建設に参加したということですから。
現地の人の喜び、悩み苦しみを理解するに従って、彼もどっぷりとその中につかっていった。
つまりアウトサイダーには違いないんだけれども、現在の佐々井さんは半ばインサイダーになってますね。
そこでアンベードカルを先達とする人たちの中に入っていって法を広めながら、
日常生活を通して彼らの庶民感情や、気持ちを十分に解ってきた中において、
彼がアンベードカルを見直して来たという事実があるわけですね。
アンベードカルを抜きにしては、この人たちを導くことは出来ないんだという風な考え方になってきたと思うんです。
これは私が居た時よりも、今の方がさらに進んでおるように思うですね。
アンベードカルがやろうとして、そして大号令をかけてスタートを切って、そして出来なかったことをですね。
ま、少し時間をかけたんだけれども、佐々井さんという日本人が入り込むことによって、
ある面においてはそれを何分の一かは代行するような形に現在なりつつあるということ。
これが佐々井上人の今のナグプール仏教徒にとっての大切な意味だと思うんですよ。
その点、インサイダーということを抜きにしては佐々井さんを論評できないと思うんです。
藤吉 私は佐々井さんにタイで逢ったこともあるんだけどけども、 彼はもうヒンディー語でやってるの?言葉は。
堀沢 もちろん最近はもう自由にヒンディー語がしゃべれますし、マラティ語もわかるようですね。
冨士 演説はヒンディーでペラペラですわ。私らが行くと皆通訳してくれるんです。
青年会のリーダーたちが言うのは、佐々井バンテジーは我々がアンベードカル没後18年間、
探し求めておったその人だという風に言っているんです。ですから彼らはもうエネルギーで充満しているんです。
何かをしたい。ですからあちこちの町に仏教の名前を付けて、ブッダナガルとかシッダルタナガルとか、
子供たちの名前も、仏典に関係のある名前が多いんですよ。おそろしいくらいに仏教一色なんですね。
お寺がどんどん建ってる。 遠方の村や町から委員会の代表が来まして、改宗式をしたいから戒師をしてくれと言って来るんですね。
向こうでは必ず集会には導師を招いて仏教行事をやる。
4月はアンベードカルの生誕、5月が釈尊の生誕、その頃は又、結婚式、名付式のオールシーズンだそうです。
ですから佐々井上人はもう忙しくて忙しくて寝る間が無いくらい走り廻っているそうですよ。
堀沢 私もしばらく一緒にいた訳ですけれども、まぁ私らでは体がいくつあっても足らんと思いましたね。
要するに夜中であろうが、何であろうが、お構いなしなんですよ。
特にブッダ・ジャヤンティーの時は、各地で少しずつ時間をずらして、そういうお祭りがあるわけです。
それには必ず導師の坊さんが必要な訳です。その場合、土地の坊さんよりも佐々井さんを一番に呼ぶわけですね。
そうすると佐々井さんの場合はそれを拒まないんですよ。ですから5つでも6つでもなんぼでも引き受ける。
それもあちこちの会場までリキシャで往復するもんだから時間がかかるんです。
そういう時期は猛暑と熱風の上に、夜も昼もないような有様です。
冨士 ですから危惧されるような、ヒンドゥー教とごっちゃになったような仏教では絶対ないですね。ナグプールでは。
藤吉 今、ナグプールのことを聞いて、僕はナグプールのことをよく知らなかったので、非常に感銘したんですけれども、
ボンベイでアンベードカルの建てたシッダルタ大学でボラーレ先生にあい、
現地の事情を聞きましたが、その時受けた感じはやっぱり熱烈だったですね。
人見鉄三郎さんは現在はグァテマラ大使ですが、当時ボンベイの総領事をしていました。
彼は、その後わざわざ箱根の仏教文化会議にやって来て、訴えたぐらいですからね。
日本の仏教界からインドに指導者を送れという提言でした。
人見さんと言うのは久松真一先生とヨーロッパを巡った時、ハンブルグの領事館で逢った人です。
非常に熱心な仏教者ですね。人見さんなんかに言わせると、アンタッチャブルと言ったって、これはもういくらおるかつかめない。
インド社会で4分の1はアンタッチャブルじゃないか、つまり被抑圧階級だと言うんですね。
その人たちが、アンベードカルを指導者として仏教徒に改宗していったこの事実は大変なことなんだが、
日本ではこれを過小評価していると人見さんはいうんですね。
実際、マハボディ・ジャーナルを見ると、大変な数字です。日本で言ってる何十万なんてもんじゃないです。
人見さんなどの解釈から見ると、仏教に改宗した人は少なくとも1,000万、2,000万と見たって構わないというわけです。
ボンベイでは、その仏教徒が農村でコミュニティーを作って農業をやっている訳です。
だから仏教の僧侶もいくべきだが、もう一つ、日本から農業指導者が行かないといけない。
デンマークからすでに農器具を送って来ているというんですがね。人見さんは熱心に訴えたんですけどね。
私も『中外日報』で訴えましたがね。日本の仏教界もさっぱりだめでね。
全日仏はあるけれども。そういう実際運動まで行かないのですね。
お説教よりもむしろそういう指導者の方が欲しいと言っていました。
冨士 純粋培養みたいな教理教義だったらいらないですよね。もう崇仏の念はあり余るほどありますものね。
藤吉 日本の仏教は宗派仏教だから、自分の宗派のことだけしか考えないんでね。残念ですね。
冨士 それとやはり確認したいのは 、ネオ(新)ブッディストという言葉をやめてほしいということですね。
藤吉 じゃあ、何と言ったらいいんですか。
冨士 仏教徒でいいと思うんです。インド仏教徒ですね。少しもおかしくないと思うんです。
我々は彼らが仏教徒であることを知って、ましてや同じく南無仏と唱えておるからこそ心を打たれるんであって、
何かネオブッディストという特別の教義なり、そういうものを掲げて運動しているのであれば、われわれは違和感を懐くはずですよ。
だけど行って見て、パーリ語の三帰五戒を一緒に唱えたり、
子供たちが寄って来てナームブッダ、ジャイビームと言って拝んでくれるのを体験した時にですね。
なぜネオブッディストといって区別せんならんか。強い怒りを感じますね。
堀沢 特に青年たちの中に、「我々は仏教徒である」ということについて非常に自覚が強まって来ている。
非常に新鮮なファイト、エネルギー、向上心っていうのかな。
だからその点、これからは、彼らが育っていく過程において非常に期待が出来るんじゃないかと思います。
老人たちはとてもそこまでは考えられません。どっちかというと、仏教とヒンドゥー教をごっちゃにしているところも、まだ沢山あるわけです。
なんといいましても、アンベードカルが仏教に改宗した動機は、やはりカーストという問題が根本にあります。
要するに彼らは、人間としての根本的な自由を求めるために、ヒンドゥー社会においては実現出来ないという事実を見極めてですね。
将来にわたって我々に永遠の自由を与えてくれるもの、
そのダルマ(教え)としてブッダ・ダルマを選んでいるわけです。
ブッダ・ダルマは、彼らにとっては、彼ら自身の人間解放、自由獲得と同時に、もっと広い展望で、
特にアンベードカルの表現によると、将来の人類の自己解放、人間解放の唯一の指導原理は仏教であると、
そこまで来ておると思うんですよ。ですから最初の動機はなるほど背後に見捨てられた人たちの苦しみの現実から出て来ていますから、
それはもう認めざるを得んのですけれども。しかしその脱皮の仕方の中で、
アンベードカルはさすがに偉大な人物だと私は思う。
それだけのスケールの広い視野において、彼は仏教というものを理解して いるし、
何といってもよくまあ彼があれだけのことをやったということこそ認めるべきなんで、
それが不十分であったということは、彼の置かれた歴史的現実から見て、無理からぬことだと思います。
ただ問題は彼がスターターだったんだから、その後の彼の同胞たちが如何にしていくか、
あるいはなっていくかということを我々は見守るべきではないか。
むしろ同じく南無仏と唱える我々は、少しでもお手伝いが出来はしないかと。
日本仏教徒の側から見れば言えば、そういう問題が出て来るんじゃないかと思うんですがね。
現地の若い人たちは非常に真剣で、吾々は仏教徒になったということに対する彼らの熱意というものは大変なものです。
これは我々がいい加減な気持ちで、例えばナグプールなんかに入って行きますとね、
なんていますか、額を叩かれるような感じがする訳です。それは日本ではちょっと想像もできないくらいの熱意なんです。
要するにこれは1つの開創期にある人たちで、何かによって何かをしようという、それがはっきりしていようとしていなくても、
そういう潜在的な情熱が出てくる一つの姿だと思うんです。だから今が非常に大事な時じゃないか。
この熱が冷めないうちに正しい指導をしてやって行かないと、下手に冷たく冷えてしまったら、
これはおそらくインド仏教の将来を決めてしまう んじゃないかというような恐れを感じますね。
冨士 私も本当に同感です。彼らは同じアジアの仏教国である日本や他の仏教国を本当に 頼りに思っているわけです。
何でもいい、奨学金制度とか、留学生を招請してやるとかいったことで連帯の絆を保っていかないと、
彼らが亜大陸のヒンドゥー社会の中で孤立感を深めて行くことが一番インド仏教復興にとっては怖いわけで、
日本寺も人のいないブダガヤの方は今ぐらいの施設で置いてですね。
次はボンベイとかナグプールといった人口の多い、ましてや仏教徒の中心地に別院を建てて指導者を送るべきですね。
中央政府はいやがるでしょうがね。しかしその壁を破らなければ、また敗れなければ、
日本仏教のブッダ・ダルマは真のダルマとしての法力は無いと彼らは見るでしょうね。
東漸はあっても西帰は不可能になってしまうでしょう。
願うところは、若い人々が思い切ってインドへ出かけて、
「ナグプール体験」、私はそう呼んでいるんですが、体験して来て欲しい。
何人もの在家の青年たちがインド旅行中、
偶然にナグプールを訪れて、佐々井上人の姿と仏教徒たちの熱意に打たれて、
帰国してからもナグプール仏教徒との交流を積極的に支援してくれています。
中には出家してナーガ(龍)を名乗り、堀沢上人の下で修業している人も居られるくらいですよ。
ですから我々の世界からも広く御支援をお願いしたいと思います。
木村 ありがとうございました。 (了)