東方界No.10 昭和49年(1974年)所載
仏道を歩むナグプールの人々
―アンベードカル菩薩と佐々井天日(秀嶺)上人―
冨士 玄峰(ナグプール・ブッディスト・センター日本支部)
はじめに
1,800年代後半よりインドに仏教復興運動が起こり、
1956年にはアンベードカル博士に導かれ、
中インド、ナグプールの住民約30万の人々が集団的に仏教に改宗した。
( 今日では数百万、数千万に達したといわれる。)
佐々井上人(39歳)は、インドに入って7年、ラージギルで2年間仏舎利塔建設を助け、
ついで中インド、ナグプールに入って5年間、仏教徒と共に命を投げ出し、
日夜灰頭土面、東奔西走の布教活動をしておられる。
ここでは最近の佐々井上人の消息を紹介して、躍進を続けるインド仏教の姿と、
それを指導しているのが、インド僧ではなく、
一人の日本人僧であることを知って頂きたいと思う。
以下は著者が1973年12月にナグプールに赴き、
佐々井上人と生活を共にした時の記録である。
バンテ・ササイジー
佐々井上人は仏教会長のマナケ夫妻の家に 寄寓しておられた。
現在マナケ夫妻の一人息子サンガ君(12歳)は
比叡山西塔の堀沢祖門上人の下で修行している。
佐々井上人はラージギルの八木上人の下で2年間、
仏舎利塔建設を助け、後に仏教徒に対する見解の相違から藤井日達上人と訣別し、
ナグプールに入って5年。常に貧しい民衆と共に酷熱に耐えて、次々と寺を建て、
井戸を掘り、ナグプール仏教徒の真の導師として、
日夜灰頭土面の菩薩行を実践しておられる。
上人のスタイルはオレンジ色のシャツにモンペ、それに袈裟をつけて、
地下足袋をはき、頭にタオルを巻いて出かける。
上人の好きな言葉。「忍辱の鎧」。
「我に七難八苦を与えたまえ」。
「日本仏子としての報恩謝徳の一念」。
朝起きると土間の一隅に祀ってある釈尊の立像の前に坐って法華経を唱える。
夕方には近くのインド正法寺にお勤めに行く。
すると青年や子供たちがスピーカーの用意をして待っている。
パーリ語のお経だ。
日曜は早朝の座禅とお勤め、法話がある。
私は上人と連日のように食事の供養を受けた。
皆、乏しい中から米を買い、チャパティ、ダル豆、カレー、羊の肉のご馳走してくれた。
道を行くと、小さな子供たちが駆け寄って合掌し、
ナーム・ブッダ(南無仏)ジャイビーム(アンベードカルの勝利)と口々に唱え、
かがんで両手を上人や私の足に触れようとする。
この人々を新仏教徒(ネオ・ブッディスト)と呼び、
北インドの仏教徒と区別することは間違っている。
新といい賎民の仏教徒と呼ぶならば、我々は許されない
「もし人を傷つけるものの感情が暴力であるならば・・・・」(アンベードカル)
我々もまた、差別と暴力を行なっていることになりはしないだろうか。
改宗広場(ディキシャブーミ)
改宗広場に向かう大通りのナショナルバンクの前にはガンジーの銅像があり、
その先のロータリーにはマラータの英雄シヴァジーの妻の銅像がある。
彼女は馬にまたがり、背に幼子おぶって、右手には高々と長剣を振り上げている。
馬は後足で立ち、前足は空をかいている。とにかく銅像が多く皆すぐれたものだ。
この大通りと、それに交差する大通りに接した大きなグラウンドが、
インドの仏教史において、第二のサールナートとも呼ばれるべき、
歴史的な場所ディキシャブーミである。
何の変哲もない広場だけれども、1956年10月14日の朝、壇上で仏陀の立像の前に立ち、
83歳のチャンドラマニー大長老に従って、白い絹のドーティとコートのアンメードカルと、
同じく白いサリー姿の彼の妻サビタが三帰五戒を唱えたのだ。
30万を超える会衆は歓呼の声を挙げ、何度も何度も彼らの導き手のジャイ(勝利)を叫んだ。
アンベードカルが呼びかけると全会衆は立って、喜びに溢れながら三帰五戒を繰り返し唱えた。
今は静かなこの広場の中央には、小さな仏陀を祀った塔と、
改宗式の時の悲痛な表情を写した、金色の巨大なアンベードカルの胸像が並んでいる。
この仏陀の場所で改宗式が行われたので、ここにストゥーパを建設する計画がある。
佐々井上人が演説会で、1人が一個の煉瓦を持って来れば、積もって沢山の煉瓦が集まる。
皆は煉瓦を持って来るようにといったところ、
早速誰かが持って来た数十個の煉瓦が像の下に置かれていた。
この広場にはアンベードカル・カレッジと ビハールがある。
このカレッジはボンベイのシッダルタ・カレッジ、オーランガバードのミリンダ・カレッジと共に
仏教徒たちの最高の教育機関である。
寺と胸像の間に菩提樹が植えられている。
このピッパラ樹はスリランカから伝えられたオリジナルだそうで、
その昔マヘンドラとサンガミトラがブダガヤからスリランカに伝えたものの分身である。
ビクー・ニヴァと呼ばれる寺には、アーナンド・コーサリヤーヤンという長老僧が住んでいる。
彼はすでに高齢で、全インド仏教会の長老である。
彼はインド僧の長老として、マハビーラ、コーサンビー、ボダナンダと続く四世を継いでいる。
ボダナンダ比丘は1914年にクリパサラン大長老によって、
初めてインドにおいて―それはカルカッタのガンジス川の小舟の上だった―得度受戒を受けた。
それまではスリランカに渡って比丘になったのであった。
アーナンド・コーサリヤーヤン長老にお会いした時、他に若い比丘が三人いた。
彼は部屋で支持者たちに囲まれて、ベッドに座っていた。大変な学者だそうである。
次に広場の西の住宅地に住んでいるゴドボレさんを訪ねた。
彼の家にはアンベードカルの舎利が銀製の立派なストゥーパに収められて祀られている。
ゴドボレさんは 45、6歳ほどで小柄な人だ。
かつて彼はアンベードカルが創立したバーラティア・ブッダ・ジャナ・サミティの幹事をしていた。
ゴドボレ青年は、アンベードカルとデリーで打ち合わせをし、改宗式のすべての準備をやってのけた。
このもの静かな人は18年経った今なお、アンベードカルの喪に服しているかのように見える。
結婚せず、一日一回の菜食を守っている。ゴドボレさんはラージギルから来た上人を最初に理解し、食事の供養をしてくれたのだ。
彼は現在どのグループにも属していない。派閥争いが嫌いなのだ。
しかし何もしないインド僧と違って、積極的に民衆のために働く上人の大乗精神に動かされて、
再び活動を始めるらしい。
アンベードカルの舎利にお参りして、
改宗式の貴重なアルバムを見せてもらった。
アンベードカル博士は、チャンドラマニー長老の前に立ち、
手にはゲンダフールの花飾りを捧げ、マイクに向かって「ナモータッサ・・・」を唱えている。
彼の視線はあらぬところを見つめている。
それから三帰五戒を唱えるために、演壇に進んだ。
彼は眼鏡を外して、本をしっかりと持って唱えている。
仏陀は本当にこの人によって彼のホームグラウンドに帰ったのだ。
改宗を宣した直後の彼の姿は痛々しい。
椅子にかけてはいるが、背にぐったりと寄りかかり、
憔悴し切った表情だ。
眼鏡は外したままで、眼はなぜか悲しげに見開かれたまま、
遠くの方を見上げている。
もう1枚は気を取り直した彼が、夫人と写っている写真だ。
夫人がサールナートの初転法輪像のミニチュアを捧げているのが印象的だ。
彼はコンバージョン(廻心)したのだ。
この日よりわずか53日目の12月6日の朝、
博士はニューデリーで急死した。65歳であった。
遺体はボンベイの北の海岸、シバジーパークの一画にある火葬場で荼毘に付された。
現在そこチャイトヤ・ブーミには彼の舎利を収めたお寺がある。
砂浜から眺める海には大きな白帆がいくつも浮かんで、素晴らしく美しい。
その時も10万を超える人々が遺体の前で、仏教への改宗を誓った。
実に12月7日、サンチーにおける仏紀2500年を祝う八日間の式典が、
成道会を前にして閉じられようとしていた。
ナグプール・ブッディスト・センター日本支部の仕事は、
獅子の心を持って、平等と正義と人間性を訴え、
踏みにじられた人々のために戦い続け、
ブッダの教えに菩薩としての安らぎを見出したアンベードカルの姿をより多くの人々に知らせること。
第二に、日本仏子の1人として、
働いておられる佐々井上人を同じ日本仏子として支援することである。
仏跡巡拝に渡印される方々は是非一度サンチーから足を伸ばして、
竜宮城(ナーガ・プール)を訪ねて、
その眼で生きた仏教、三帰五戒を唱えるナグプールの仏教徒民衆の
貧しいけれども素晴らしく美しい姿を確かめていただきたいと思う。