アンベードカル略年譜

一八九一年  四月一四日、中央インドのムホウで、一四人兄弟の末子と
       して生まれ、ビームと名づけられる。

一九〇七年  大学入学資格試験に合格する。

一九一三年  六月、バローダ藩王の海外留学奨学金を受けることに成功
       する。七月、アメリカのコロンビア大学に留学する。

一九一五年  論文「古代インドの商業」 でコロンビア大学の修士号を得                                     
       る。

一九一六年  六月、「インドの国益−歴史的・分析的研究」と題する学位
       請求論文をコロンビア大学に提出し、博士号を与えられる。
       また、ロンドンに移り、グレイズ・インとロンドン大学の
       政経学院に入る。

一九一七年  八月、ボンベイに上陸する。しばらくバローダ藩王国で奉
       職するが、度重なる差別のために一一月にボンベイに戻る。

一九二〇年  七月、再びロンドンに渡る。

一九二一年  六月、論文「英領インドにおける帝国財政の地方分散化」
       でロンドン大学の修士号を得る。

一九二二年  一〇月、学位請求論文「ルピーの問題」を提出し、ロンド
       ン大学の博士号を得る。また、弁護士の資格も得て、ドイ
       ツに渡り、ボン大学で学ぶ。

一九二三年  四月、ボンベイに戻る。
                                        
一九二四年  七月、ボンベイで被抑圧者救済会を設立する。

一九二六年  ボンベイ州立法参事会に留保された被抑圧階級議員に指名
       される。

一九二七年 マハードで集会を開き、チャオダール・タンクに行進し、
そこの水を飲む。また、『マヌ法典』を焼く。

一九二八年 サイモン委員会に協力する。

一九三〇年 第一次英印円卓会議に出席する。

一九三一年 九月七日、第二次英印円卓会議に出席する。ここで不可触
民への分離選挙をめぐって、ガンディーと対立する。

一九三二年 八月、イギリス首相マクドナルドにより「コミュナル裁定」
が出される。九月二〇日、ガンディーが「コミュナル裁定」
の撤回を求め、「死に至る断食」 を始める。九月二二日、ガ
ンディーと会見をし、二四日に 「プーナ協定」を結ぶ。

一九三五年 不可触民の大会で改宗予定宣言をする。

一九三六年 独立労働党を組織する。

一九四一年 七月、総督により行政参事会の一員に加えられる。後に、
労働担当大臣に就任する。

一九四六年 六月、行政参事会が解散され、労働担当大臣を辞任する。
七月、制憲議会議員に選ばれる。

一九四七年 八月初めに発表された閣僚名簿に法務大臣として名が載る。
      八月一五日、インドとパキスタンが分離独立をする。八月
二九日、憲法起草委員会の委員長に任命される。

一九四八年  制憲義会に草案を提出する。   

一九四九年  一一月二六日、制憲議会に草案が採択される。

一九五一年  ヒンドゥー法の改正案が廃案になったことが原因で、法相
       を辞任する。

一九五六年  一〇月一四日、ナーグプールで三〇万人の人々とともに仏
       教に集団改宗する。そして、一二月六日に死去。