(三)
ブッダのゴスペル(教え)を認容することのみがヒンドゥーの人々を救うことができると信じている人々のあるものは、
インドに仏教が復帰、または復活することの大きな予想を見ることがないので悲しみに満たされている。
私はこの悲観論を支持しない。
 ヒンドゥーは今日、彼らの宗教に対する彼らの態度について、二つのクラスに分かれている。
すべての宗教はヒンドゥーに含まれて真実であり、他の宗教のリーダーたちは
そのスローガンのもとに彼らに加わるように見えると思っている人々がいる。
ここにおいてすべての宗教は真実であるという命題以上に誤った命題はあり得ない。
しかしながらこのスローガンはそれを立てたヒンドゥーに他の宗教の信者の支持を与えた。
 彼らの宗教には何か正しくないものがあると実感するようになった別のヒンドゥーがいる。
ただ彼らにはそれをあからさまに告発する用意がないだけのことだ。
この態度は理解し得る。宗教は人の社会的な継承の部分だ。
人の生命や尊厳や誇りはそれと密接な関係にある。
宗教を捨てるのは容易ではない。愛国心がそれに当てはまる。
私の国は正か不正か、そのようにまた、私の宗教は正であるか、不正であるか。
それを捨てる代わりにヒンドゥーは別の道に逃げることを見つけた。
 ある人々はすべての宗教は間違っているという考えでもって、自らを慰めている。
だからどうして宗教のことで思い悩むことがあろうか。
愛国心の同じ感情が彼らが公然と仏教に入信することを妨げている。
そのような態度はただ一つの結果だけをもたらす。
ヒンドゥーイズムは人生を支配する力であることを喪失し、停止してしまうだろう。
そこにはヒンドゥー社会を崩壊させる力を持つであろう虚しさが存在する。
その時ヒンドゥーはより積極的な態度を敢えて取ろうとするだろう。
彼らがそうするとき、彼らが転回し得るものは仏教以外の何物でもない。
これはただの希望の輝きではない。他の方角からもまた、来る希望がある。
すべての宗教が答えなければならない一つの質問がある。
宗教は、どのような精神的かつ道徳的救済を抑圧され踏みにじられた人々に対してもたらすか?
もしそれが果たさないならば、それは それ裁かれる。
 ヒンドゥーイズムは何らかの精神的、道徳的救済を何百万という背後に押しやられた人々や、
指定カーストの人々に対して与えたか?
そうではない。
ヒンドゥーはこれらの背後に押しやられた人々や指定カーストの人々が
彼らに精神的道徳的な救済のいかなる約束も与えないヒンドゥー教の下で生きることを期待するのか?
そのような期待は全くの無益だ。
ヒンドゥーイズムは一つの火山の上に浮かんでいる。
今日それは死滅したように見える。しかしそうではない。
かってこれら数百万の人々が彼らの堕落に気づいていたし、
そのことがヒンドゥーの宗教の社会哲学に大いに帰すべきであることを知っている。
 人はローマ帝国におけるキリスト教による異端の打倒を思い出す。
民衆が異教は彼らになんらの精神的道徳的救済をも与えることができないことを悟ったとき、
彼らはそれを放棄してキリスト教を採用した。
ローマで起こったことがきっとインドで起こる。
ヒンドゥーの民衆は彼らが悟ったとき、きっと仏教に改宗するに違いない。
 ヒンドゥーイズムと仏教との比較はこれで十分だ。
仏教は他のヒンドゥー教との比較においてどうあるのか。
これらのノン・ヒンドゥー教のひとつひとつを取り上げ、そして細部にわたって仏教と比較することは不可能だ。
私のできうるすべては要約した形で私の結論を述べることだ。私は主張する。
 一、社会はそれを結合すべき法の強制力か、または道徳の強制力かのどちらかを有しなければならない。
どちらも欠いた社会は確実に分裂してしまう。
すべての社会において法律は非常に小さな部分に働いている。
それは少数者を社会の規律の範囲内に留めることを意図している。
多数者は残るし、そしてその社会生活を公準や道徳の力によって支えるために残されねばならない。
道徳の意味における宗教は、それゆえすべての社会において支配原理であり続けねばならない。
 二、最初の提案で定義されたごとく、宗教は科学と調和していなければならぬ。
もし宗教が科学と調和しないならば、宗教は必ず尊敬を失うだろう。
そしてそれゆえあざけりの主となり、それによって人生の指導原理としての力を失うだけでなく、
時の中で崩壊し消滅するだろう。
言い換えれば宗教はその役目を果たしているならば、
科学にとって単に別の名前である理性と調和していなければならない。
三、社会道徳の法典としての宗教は、また別の標準とともに立たねばならぬ。
宗教にとって道徳律から成り立つことだけでは十分ではなくて、
その道徳律はまた、自由と平等と友愛の基本的な信条を認識せねばならない。
もし宗教が社会生活におけるこれらの三つの基本的な原理を認識しないならば宗教は破滅するだろう。
四、宗教は貧困を神聖化したり、高いものとすべきではない。
富める者による富の放棄は結構なことかもしれない。
しかし貧しいものには決してできないことだ。
貧困が一種の祝福された状態だと説くことは宗教を悪用することであり、
罪悪や犯罪を永続させることであり、この世を生き地獄にすることに同意することである。
 どの宗教がこれらの要求を満たすだろうか。
この問いを思うとき、大聖の時代は去り、世界は新しい宗教を得ることができないことを思い起こさねばならない。
それは現実に存在する宗教から選ばねばならないだろう。
それゆえ、その問いは実存する宗教に限定されなければならない。
実存する宗教のあるものはこれらのテストの一つを、あるものは二つを満たすかもしれない。
質問はこうだ。ーーーすべてのテストを満足させるような宗教は存在するか。ーーー
これらのすべてのテストを満たす唯一の宗教は、私の知る限りではブッディズムである。
言い換えれば仏教は世界が所有し得る唯一の宗教である。
もし新しい世界ーーー実現されれば過去と非常に異なった世界ーーーが一つの宗教を持たねばならないとしたら、
また、新しい世界が古い世界が為した以上にさらに宗教を必要とするならば、
それは仏教でしかありえない。
 このことのすべてが非常に奇異に響くかもしれない。
このことはブッダについて書いた人々のほとんどが、
ブッダが説いた唯一の教えはアヒムサー(不殺生)であるという考えを宣伝したからである。
これは大変な過ちだ。
ブッダはアヒムサーを説いた。
なるほど私はその重要性を過小評価することは望まない。
なぜならそれは偉大な教えだからだ。
世界はアヒムサーの教えに従わなければ救われないだろう。
ここで私が強調したいのはブッダはアヒムサー以外にも多くの教えを説いたということだ。
彼は彼の宗教の部分として、社会的自由、知的自由、経済的自由、政治的自由を説いた。
彼は平等を説いた。男と男だけの平等ではなく、男と女との平等を説いた。
ブッダと比較すべき宗教家を見いだすことは難しいに違いない。
その教えは人々の社会生活の非常に多くの様相を含んでおり、
またその教えの内容はとても近代的であり、
その主な関心事は人に彼の地上における人生のうちに救いを与えることであって、
彼の死後、天国において彼に救済を約束することではない。
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