(五)
          (四)はテキストに省かれている。
いかにしてブッディズムを広めるというこの考えは実現され得るか。 
 三つの段階がぜひ必要と思われる。
第一、仏教徒の聖書を作ること。
第二、ビクシュ・サンガ(僧団)の意図と目的を機構において改革すること。
第三、世界仏教徒ミッションを設立すること。
 仏教の聖書の作成は最初にしてかつ最も必要である。 
仏教経典は膨大な文学である。
仏教の精髄を知りたいと望む人が、経典の海を歩いて渡り切るのを期待することは不可能である。
他の宗教が仏教以上に最も有利な点は、それぞれがだれでも持ち運びができ、どこででも読める聖典を持っていることである。
それは手軽なものである。
ブッディズムはそのようなハンディーな聖典を持っていないためにひけをとっている。
インド撰述のダンマパダは期待されている機能を果たすのに役立っていなかった。
すべての偉大な宗教は信仰の上に成り立ってきた。
しかし信仰はもしそれが教義や抽象的な教理の形式で示されるならば会得され得ない。
 想像力がいくつかの神話や叙事詩や教えを結び付けることができる何かが必要だ。
---ジャーナリズムでは物語りと呼ばれるものが。
ダンマパダは物語りを結び付けてはいない。
それは抽象的なドグマの上に信仰を築こうとしている。
企画される仏教聖典は以下のものを含まねばならない。
1、ブッダの簡単な伝記
2、中国(漢訳)経典(大乗経典)
3、ブッダの重要な対話のいくつか
4、仏教徒の儀式、誕生、入信受戒式、結婚式、葬式。
そのような聖典の用意において、言語上の側面がおろそかにされてはならない。
聖典が編まれている言語をして生き生きさせねばならない。
それは語り物として、或いは倫理的な解説として読まれる代わりに一つの呪文(教文)と成らねばならない。
そのスタイルは明快で感動的でなければならない。
また、一種の催眠効果を作り出さねばならない。
ヒンドゥーサニヤシとブッディスト・ビクシュの間には山ほどの違いがある。
ヒンドゥーサニヤシは社会と共になすべき何物も持たない。
彼は社会に対して死んでいる。ビクシュは社会と共になすべきすべてのことを持っている。
そうであるならば疑問が起こってくる。
ブッダがビクシュ・サンガの創設を考えた目的は何か?
一つの分離されたビクシュの社会を創ることの必要性とは何か?
一つの目的は仏教の教えに具体化された、仏教徒の理想に従って生きようとするところの、
そして俗人に対して、一つの模範として奉仕するところの一つの社会を創り出すことであった。
 ブッダは普通人にとって仏教徒の理想を実現することは可能でないことを知っていた。
しかし彼はまた、普通人が理想がなんであるかを知ろうとすることを望んだし、
また、普通人の前に彼の理想を実践することの確かな人々の一つの社会が置かれるだろうことを望んだ。
これが彼がビクシュ・サンガを創り、また、ビナヤの規則によってビクシュ・サンガを規制した理由である。
しかし彼がサンガの設立を考えたとき、彼の心には別の目的があった。
そのような目的の一つは俗人に真理と偏らない指導を与えるための知識人の一団を創造することであった。
このことが彼が財産の所有をビクシュに禁じた理由である。
財産の所有は自由な思考と自由な応用において、最も大きな障害の一つである。
ビクシュ・サンガの創立におけるブッダの他の目的は、
人々に奉仕をするために自由であろうとするメンバーの一つの社会を創造することであった。
このことが彼がビクシュが結婚することを望まなかった理由である。
現在の状態ではビクシュ・サンガはそれゆえ仏教の宣布に何の役にも立たない。
第一にビクシュがあまり多すぎる。これらの大多数は彼らの時間を黙想や怠惰に費やしている単なるサドゥーやサニヤシスである。
彼らには学問も奉仕もない。
苦しんでいる人々に対する奉仕という考えが人の心に浮かぶとき、
だれもがラーマクリシュナ・ミッションを思う。
誰もブッディスト・サンガを思わない。
誰がその敬虔な義務として奉仕を重要視しているか?
サンガかミッションか?
答えについて何の疑いもない。
その上、サンガは怠け者の巨大な軍隊である。
われわれはより少ないビクシュと高度に教育されたビクシュを望む。
ビクシュ・サンガはクリスチャンの僧職、特にジェスイット教団の特徴のいくつかを取り入れるべきだ。
キリスト教は教育と医療の奉仕を通じてアジアに広がった。
このことはキリスト教の僧侶が単に宗教的知識に精通しているだけではなく、
学芸と科学にも精通しているがゆえに可能なのだ。
これは実に往時のビクシュの理想であった。
よく知られているように、ナーランダやタキシラの大学はビクシュによって運営され配置されていた。
明らかに彼らは非常に教養のある人々であらねばならなかったし、
社会奉仕が彼らの信仰の宣布のためになくてはならぬことを知っていた。
今日のビクシュは昔の理想に戻らねばならない。
落ち着き払ったサンガは俗人に対するこの奉仕を尽くすことができないし、
それゆえ人々を牽きつけられない。
ミッションが無くてはブッディズムはほとんど広がれない。
教育が与えられることを要するように、宗教は宣布されることを要する。
宣教は人と金なしには始められない。
だれがこれらに答えられるか?
明らかに仏教が生きた宗教であるところの国々だ。
少なくとも最初の段階での人と金を見いださねばならないところのこれらの国々である。
彼らは行うだろうか。
これらの国々では仏教の宣布に対して非常に熱心であるようには見えない。
一方、仏教の宣布には実に恵まれた時代であるように思える。
一時期、宗教は彼自身の相続遺産の一部であった。
かって少年や少女は彼らの両親の宗教を、両親の財産と一緒に相続した。
そこには宗教の長所や徳を検討する疑問の余地はなかった。
時折、相続人は疑問を発した。
両親の残した財産は受け取る価値があるかどうかと。
しかし、どの相続人も彼や彼女の両親の宗教は持つだけの価値があるかどうか問いはしなかった。
時代は変わったようだ。
全世界の多くの人々が、彼らの宗教の相続に関して先例のない勇気の一端を示している。
多くのものが科学的考察の影響の結果として、
宗教は、捨て去るべき一つの誤謬であるとの結論に達した。
 他のものはマルクスの思想の結果として、
宗教は貧しい人々に説いて、富める者の支配に従わせるためのアヘンであり、
捨てられるべきだとの結論に達した。
 理由はどうであれ、事実は依然として人々が宗教に関しての探求心を発達させたことである。
そして宗教が本当に持つ価値があるかどうか、
また、もしそうであるなら、どの宗教が持つべき価値があるかどうか、という質問は、
この問題について考えることを敢えてする人々の心の中にある第一の疑問である。
 時は来た。
望まれるものは意志だ。
もし仏教国が仏教宣布の意志を発展させることができるならば、
仏教宣布の事業は困難ではないであろう。
人々は仏教徒の義務が単に善良な仏教徒であることだけではないことを悟らねばならない。
彼の義務は仏教を広めることである。
人々は仏教を広めることは人類に奉仕することだということを確信しなければならない。
(1950年、カルカッタ、大菩提会機関誌「マハ・ボディー」掲載予定原稿)
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