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私は私のスピーチに対して、わが国の新聞によってどのような評価が与えられているかを知らない。
私は評判を全く気にかけはしない。けれどもこれらの新聞人たちは過去40年の間、私の後をつけ回している。
彼らは私をけなした。彼らは私の意見というものを誤り伝えた。彼らは私の発言を削除してしまった。
私はこれらの新聞人たちが円熟した人間のように振る舞うことを学ぶことを、
そして世界がそれらについて真実を知り、よりよい印象を形づくるために、
信用のおける正直なやり方で考え、そして書くことを望む。
我々の仏教への改宗の上で、犠牲にしなければならないかもしれない多くのものがある。
そこで私は、特許利権や、留保議席のように、その他の関わりのあるものについて、
あなた方がそれらを失うことはないということを請け合う。
この儀式のあと、私が専念しようとする最初の問題はこれらの特許利権の問題であるでしょう。
これらの特許利権の継続は、法廷へ我々を連れ出すかもしれない一連の活動を必要とするだろう。
私はこの場ではっきりさせる必要はないけれども、そのような万一の場合に備えて、どのような活動を採用するかを用意している。
諸権利(正義)を達成することができる人々が、強さとそれらをも保持する能力を有する。
われわれはこの運動のために、多くをなさねばならないのだ。
多くの問題が仏教を受け入れた後で生じてくるだろう。
われわれはどのように対処すべきか?
われわれはどのようにして起こりうる多くの困難に対して勇気をもって立ち向かうべきか?
私はその問題と取り組むに十分な強さと材料を手にしている。
私はこれらの権利のために戦い、そしてそれらをあなた方に保証してきた。
私は誓おう。あなた方のために、それらを再び私は獲得しよう。
もちろん私の死後に何を起こるかは分からないが。
私と私が語る言葉を信じなさい。
我々の敵対者の言葉には絶対に真実はない。
私はあなた方にいう。
彼らの言葉に注意を払うなと。
我々の改宗の問題は至るところで論議されている。
けれども私はだれひとりとして私に対して、
なぜすべての宗教の中で私がブッダの宗教を選んだかという理由を尋ねるものがいないのは意外だ。
改宗のどの運動においても、これは1つの重要な問われるべき質問だ。
一つの宗教に入信するときに、人はこれらの質問を自らに問いかけねばならない。
すなわち
1、どの宗教が採用されるべきか?
2、そして、どのようにそれは採用されるべきか?
私は1,935年にナシクでヒンドゥーを正式に放棄する運動を始めた。
それ以来、私はその闘いを続けた。ひとつの大きな集会が1935年、イェーバラでもたれた。
それにおいて1つの決意を通して、1つの決議が採択された。
われわれはヒンドゥーの宗教を正式に放棄すべきだという趣旨で。
その会議で私は言った。生まれはヒンドゥーだ。そのことは仕方がないけれども、私はヒンドゥーとして死ぬことはないだろう。
この改宗は私にとても大きな満足と想像もできぬ喜びを与えてくれた。
私はまるで地獄から解き放たれたような気がする。
私は、昨日改宗したあなた方すべての一人ひとりに望む。
あなた自身の体験によって、このことを実現するように。
しかし、私はいかなる盲目的な信従者もいらない。
私は羊のような性根、心根は好まない。
ブッダの庇護の下に来ることを望む人々は、見通しをつけた後でそうすべきだ。
というのは仏教は実践するに非常に難しい宗教であるから。
人類の宗教の発達にとって、より精密なダンマであることが絶対に必要だ。
カール・マルクスの徒輩のある者たちは、宗教はアヘンであると信じている。
しかし、このカール・マルクスの意見は割り引いて受け取らなければならない。
そのように言う人々、彼らにとって宗教はなんら重要でなく、何の意味もない。
われわれの間でさえ、”食べて飲んで、そして陽気にやる”主義を奉ずる人々は多い。
彼らが望むすべては、ーーー朝食のためのパンとバター、午後のおいしい食事、眠るための心地良いベッド、そして時を過ごす映画だ。
彼らの生活には、宗教のためのいかなる場所もない。
私はどうしても彼らになじめない。
私の父の貧困のため、私はいかなるこれらのぜいたくをも楽しむ機会を持たなかった。
人生の随分後まで、私は極度に苦しみ悩み、懸命に努力した。
しかしこのことは私を反宗教的にはしなかった。
私自身、貧困が産み出す辛苦がいかなるものかを知っている。
我々は経済的な側面を念頭において、我々の闘いを始めなければならないし、私はこの考えに反対ではない。
我々は経済的にもまた発展すべきだし、自立できるよう努力すべきだ。
私は自ら、一生を通してそのために戦ってきた。
それどころか、私は人類が経済的に強くなることを切に臨んでいる。
けれども私はこのことについては私独自の意見を持っている。
人と動物の間には一つの違いがある。
同時にけものは生存のための日々の食物の外は、何も必要としない。
人間は肉体と感覚意識を賦与されており、ともに発達させねばならない。
心は身体と並んで発達しなければならない。
心はまた、純粋な思考で満たされねばならない。
自分としては、人々が食べて、飲んで、陽気にやるのが人生のモットーなんだと信じているような国々と、
共にすべき何かを持つことは少しも有益ではないと信じる。
民衆を念頭に置くならば、人は留意すべきだ。
我々がちょうど病気から自由であるためには、健康な肉体を持たねばならず、
そのために肉体を健康に保つように、我々はまた感覚意識を発達させねばならない。
さもなければ、人が発達し、進歩するということは空言戯言となるだろう。
どうして人の心は病気になるのだろうか。
その理由は人の肉体が苦痛から自由でない限り、心は幸福ではあり得ないということによる。
ここにラームダースーーーマハラシュトラの聖者ーーーの言葉がある。
”すなわちもし人が意欲を欠くならば。彼の心も肉体も、どちらも一つの病んだ状態にある。
”さて人の意欲を奪い取るものは何か?
もし、意欲がないなら、人生は単調な骨折り仕事となり、引きずっていく重荷でしかない。
どうして人は意欲を失うのか?
意欲のこの欠乏の主な理由は、個々が自らを高める機会を得る希望を失うことだ。
絶望が無気力を導く、心はそのような場合に病気になる。
現在の惨めさから逃れるためのいかなる希望の光をも見ない人は意欲を欠いている。
そしていつも陰気(無気力)だ。それではいつ、意欲は産み出されるのか?
それは人がその労働に対する正当な報酬を得ることを確信する雰囲気を呼吸する時、ただその時のみ、
人は意欲と英知によって、高められたと感じるのだ。
もし学校で教師が、「おい、マハール(賎民)の子の席はここだ。」と言って教え始めたとする。
何とかして彼は、クラスの首席になれるだろうか?
彼はクラスの首席になって、就職できるだろうか?
ブラーミンだけが首席を獲得する資格があるのだ。
さて、こんな環境でそのマハールの少年は、どんな意欲、どんな英知、どんな希望が持てようか?
どうやって彼は人生において、進歩向上していくことだろう。
英知と意欲のために人は健全な精神を持たねばならない。
そのような人があらゆる困難を克服できるのです。
彼は信念と勇気と向上心を持ち、それらが彼に英知と意欲をもたらすのだ。
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