26,アリポア ロード, シビルラインズ,
デリー
1956年10月30日付
親愛なるバリシンハ様
1956年10月25日のあなたのお手紙、誠に有難うございました。
それは確かに偉大な催しであり、改宗のために名乗り出た群衆は私の期待を超えました。すべて上手くいったことを仏様に感謝いたします。
私は喜んでいます。我々が未来に向けて継続する発展を見なければならないこの事業を上手く始めるようにあなたが実現して下さったことをうれしく思います。私たちは、仏の教えに帰依し、私の言葉を受け入れた大衆に仏教の教えを与える方法と手段を検討する必要があります。私たちが人々に仏法を教えるためには多数の活動家を養成しなければならないことは疑いようもありません。しかしそのことを実行するための最良の担当者は比丘です。彼らは、素人の誰にもできない偉業を彼らと共に実行するでしょう。
私が思うに、比丘たちは、成されるべき大きな仕事が彼らを待っていることを知って大いに仕合せであるべきです。比丘にとって唯一の困難は彼らが彼等民衆の言葉を学ぼうとしないことです。私はサンガがその外見を変えて、彼らが世捨て人と成る代わりに、キリスト教の宣教師のような社会活動家や、社会的な布教師へと変っていくべきではないかと考えています。私が述べるように、今日、彼等はアラハン(聖者)でもなく、社会の有用なメンバーでもありません。この事実を彼らに痛感させ、彼らがダンマ(仏法)の説教者になることによって仏陀によく仕えることができるということを認識させなければなりません。
私は、比丘と在家者に仏教の基礎を教え、インドのさまざまな言語を学ばせ、さまざまな地域に派遣することができるように、ある種の理論的なセミナーを開くというあなたの考えに賛成いたします。
そのことに関するインドの若者たちの考えを知る限り、修道院的な思想を学ばせるようにすることは非常に難しいです。一番いい方法は、日本の結婚した僧侶のような、またプロテスタントのキリスト教徒が行ったようなことが可能だということです。そのために、私たちは彼らの教育期間中、そして彼らが僧侶として一般社会に出た後をサポートするための手段を見つけなくてはなりません。
ボンベイでの改宗式は、おそらく12月に場所を発表するでしょう、おそらく、多くの人々がそうでなければ得られない交通手段が得られるクリスマスの休暇中に場所を取れるでしょう。ボンベイの人々と相談した後、私はあなたに正確な日時をお知らせいたします。
私は貴方が「大菩提会会報」に、Nagpurの式典の全容を掲載して下さることを願っています。私は貴方に特に次の点を申し上げたいと思います。
1. 最初の日、およそ38万人の人々が仏教に改宗しました。多くの人々が式典後に到着しましたので、翌日、2回目の式典がプログラム最初の項目として設けられました。
2. 1956年10月16日にチャンダ(チャンドラプールの旧名)で別の会議があり、夕方に開催されました。また、別の改宗の式典が開催され、30万の人々が改宗しました。
3. 昨日の新聞のニュース記事によると、私が去った後もアコラで再び改宗式が行われ、2千人以上の人々が改宗したとのこと。
4. その「Navyug」というマラティー紙は、Nagpurでの改宗式の式典に参加したイベントのいくつかの素晴らしい写真を掲載したこと。
5. 私はあらゆる方面から手紙を受け取っていること。
もしあなたが「大菩提会会報」に記事を掲載して、写真を載せたいとお望みであれば、同じ写真を手に入れるのを手伝います。どうかお知らせください。
私たちのツアープログラムに関するあなたのお尋ねに関しては、貴方にお送りしたコピーに触れられております。
あなたは**** それ ***を知ることでしょう。私はサルナートに参ります。
敬具
署名
(B.R.アンベードカル)
インド大菩提会,
シュリ D.ヴァリシンハ事務総長様
4-バンキムチャタジーストリート,
(カレッジスクエア)、カルカッタ-2.
―「The
Maha Bodhi」,may,1957.p.226より―
解説:
藤吉慈海先生は論文「アンベードカルの仏教観」を以下の文章で結んでおられる。
「その目的はある程度達成せられ、彼の死後、新仏教徒の数は急激に増加していると報ぜられている。これらの新仏教徒の指導の問題がのこされているが、アンベードカルの遺志は必ず達成されるであろう。アナガーリカ・ダルマパーラを創立者とし、バリシンハに継承されているインド大菩提会の仏教復興運動が主として仏蹟の復興とインテリを基盤とする運動であるのに対し、インド中部から西部の農村におこったこの新仏教復興運動が、今後どのような歩みをして行くか、注目すべきことである。その指導に挺身する日本仏教徒の渡印を要請して來ていることも、この際、深く反省してみなければならぬであろう。」と。
(注:現在の我々関係者・支援者はインド仏教徒と呼んで、新仏教徒という呼称は自覚的に用いていません。)
そして運命の人、佐々井秀嶺上人は、タイの僧院からインドへ、ラージギルの日本山妙法寺仏舎利塔建設工事を手伝い、仏跡巡拝をしてから帰国しようとするそのときに、龍樹菩薩の霊告を受け、未知であったナグプールへ入られたのであった。アンベードカル没後12年目であった。
この「バリシンハへの手紙」の中でアンベードカル博士が「一番いい方法は、日本の結婚した僧侶のような、またプロテスタントのキリスト教徒が行ったようなことが可能だということです。そのために、私たちは彼らの教育期間中、そして彼らが僧侶として一般社会に出た後をサポートするための手段を見つけなくてはなりません。」と言っているのは、アナガーリカ・ダルマパーラもバリシンハも来日経験があり、日本の僧侶のほとんどが家庭を持ちつつ活発に活動していることを実見し、感銘を受けたことを表明しており、それらをアンベードカル博士も読んで、関心を持っていたと思われる。大菩提会も博士も大乗仏教を高く評価していたのであった。
大菩提会、アナガーリカ・ダルマパーラ、バリシンハの詳細についてはウィキペディア等を参照して下さい。(冨士)