「一打の鑿」
京都で出会った石を刻む人、黙舎一石氏の手になる尊像を拝したとき、一冊の本を思い出した。
探してみると、本棚の最上段の隅にあった。
アテネ文庫は薄くて可愛い掌サイズだった。
木村素衛著「ミケルアンジェロの回心」「一打の鑿」を読んで、若き日の私は体が熱くなるほどの感激を覚えた。
よき女人(ひと)に宿る神の御言葉
うまし聲、心に聴けば
うつし身はあはれ消え果て
たづぬれど今はあらなく
あだ衣脱ぎて来つれば
今ぞ知るむらぎもの悩み
汝(な)に依りて鎮まり行くを
汝が眉(まみ)の気高き見れば
うつし世の歓楽(よろこび)消えつ
仇し美は死ぞと厭わし
よき女人(ひと)よ
汝が指す道は
泣きぬれし果ての幸(さき)はい
あだ衣再びわれに返さざれ
この詩はミケルアンジェロが永遠の女人(ひと)、ヴィットリア・コロンナを讃えて歌ったものです。
今また木で仏を彫ることを習い始めて、再びそのときの感動にも似た悦びを味わっています。
人は石の仏に向かい、木の仏に向かって何を見るのだろう。
私流に言えば無形の神仏。妙法無量の性功徳(しょうくどく)、神の恩寵が本当にわかったなら、
有形の神仏はなおさら素直に有難いということです。
一打の鑿を加えた瞬間から、人はそこに神仏を立ち現わさずにはいられない。
汝まさに作仏すべしであります。
真の敬虔とは何か、それは神の創造作用に奉仕すること、
そして最高最善の奉仕とは、人が仏になることであります。
「衆生本来仏なり・・・・・・・・・・・この身即ち仏なり」(白隠禅師坐禅和讃)
人々が、いま菩薩となって立ち現われたみ姿に導かれて、
真実(まこと)に向かう信仰と希望への道、成仏への道を歩まれんことを念願して、
一打ち、一打ち、鑿をふるうのです。
2018年(平成30年)7月31日、旧作改訂