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第二に、もし誰もダンマを説くものがいなければ、ダンマは発達もしないし、しまいには廃れてしまう。
知的で学問のある人々は彼らの日常生活において、宗教について討論しなければならない。
もし批判者や敵対者に答えるためのダンマの法典をよく読み通した学者が一人もいなければ、
この場合ですらその宗教は死んでしまう。
ダンマとその原理がそれを説き明す学者のためのものであると同時に、
初心者もしくは在家信者は寺院へ行くことが出来る。
そこで彼らはダンマの教法を学んだり礼拝出来る。
あなた方は仏教に関する以下の四つの事実に心を留めなければならない。
あなた方は仏教の教説が一時的の価値であり、長続きしそうもないと決して考えてはならない。
2500年の経過の後でさえ、世界はブッダの教法を尊敬している。
アメリカ合衆国には2000ほどもの仏教徒の協会がある。
イギリスでは仏教寺院が三〇万ルピーで建てられた。
ドイツではブッダの名のもとに設立された協会が三千から四千ある。
バグワン・ブッダの法と教えは永遠だが、この事実にもかかわらずブッダは自身にいかなる地位も要求しなかった。
また彼の法が絶対であることも要求しなかった。
彼は決して彼自身、また彼の宗教に対して神性を要求しなかったし、
神の最後の予言者であるとも言わなかった。
反対に彼は言った。「わが父・わが母は普通の人間だった」と。
さて、なにが仏教の基礎であるか?
もしあなた方が注意深く調べるならば、仏教が理性に基づいているということがわかるだろう。
そこにはどのような他の宗教にも見いだされない、それに固有の柔軟性の要素がある。
熱心に帰依する人々だけがこの宗教に入信するに違いない。
もし、彼らが仏教に帰依しない、あるいは仏教が彼らにアピールしないならば彼らが入信することはないだろう。
というのは、そのような高度の原理は、どのような他の宗教にも見いだされないからだ。
この宗教と世界の他の宗教の間には山ほどもの違いがある。
仏教の主要な原理は神話的宗教のいかなる部分からも形作られていない。
他の諸宗教によれば、神は世界を創造した、この大地を、それから、天を創り、大気、月、星たちを創った。
このことは彼が膀胱の中の石もまた創ったことを意味する。
神はなされることを要求されるままにすべてを成した。
そして今や、我々のためのなすべき何事も残ってはいない。
我々がなすべく命じられているすべては、まさに全能なる神への讃嘆を歌うことだ。
これでは今日の合理的な人間にアピールしない。
キリスト教によれば裁きの日があるという。
そしてすべてはその日の裁き次第による。
その日に人は天国へ送られるか、地獄に送られるかする。
仏教は神と霊魂の存在を否定する。
仏教の真の基礎は苦悩を解脱するための合理的な方法(道)である。
ブッダは言った。「世界は苦に満ちている」と。
九十%の人々は何らかの苦悩や悲惨に苦しんでいる。
仏教の主要な目的は苦しんでいる人類を開放することにある。
そこで一つの疑問が起きてくる。
資本の必要とはなにか?。
あたしはカール・マルクスはブッダからはるかに遅れていると考える。
というのはブッダがマルクスの生まれる2,400幾年前に、ブッダ自身によって明らかにされなかった何かを彼が言ったのではないからだ。
私は大勢のコミュニストの友人たちをここに見る。
レポーターの中に混じっている人たちだ。
私は彼らに問いたい。ブッダの目的とマルクスのそれとはどのように違うのか、と。
ブッダの語った言葉はシンプルであり、彼が示した道はストレートであった。
ブッディズムは全・包括的な宗教なのだ。
兄弟たちよ。話すべきことはすべて話した。
これが世界で最善の宗教だ。
そしてそれには絶対に何の疑いもあり得ない。
人間の向上にとって大層必要な熱意に対して有害なものがある。
数千年が経過したが、われわれの間にはたった一人の知識人も生まれていない。
私はあなた方に、私の少年時代の思い出のいくつかを話したいと思う。
一人のマラータの女が学校に雇われていた。
彼女自身、まったく無知文盲であったが、アンタッチャビリティーを守って、私に触れることを避けた。
ある日のことを私を覚えている。
私は非常に渇いていた。
私は水道の蛇口に触れることを許されていなかった。
私は先生に水が飲みたいのです、といった。
先生は小使いを呼び、彼に私のために蛇口を回すよう頼んだ。
そこで小使いが蛇口を開けて、私は水を飲んだ。
しかし小使いが不在の時はいつも水無しでいなければならなかった。
渇いて私は家に戻らなければならなかった。
そこでやっと私は渇きをいやすことができた。
私がアメリカおよびヨーロッパでの留学を終了して帰郷したとき、地方判事のポストを与えられた。
私は以後の三年以内に高等裁判所に昇進することを約束された。
私はそのような、誘いかける足手まといは欲しないと言って申し出を辞退した。
私は恐れた。
政府機関に入った後では、我が民衆に奉仕することができないのではないか、と。
この考えを守って私は政府から遠ざかっている。
私の持っている教育と知性と、知識と経験を持って、幾多の悪に立ち向かい戦うことは、私にとって困難ではない。
しかし、カースト制度、われわれの頭上にいるバイシャ、ブラーミン、クシャトリヤという巨大な山がある。
われわれの前にある問題はいかにしてそれを倒し、打ち砕くかである。
私がブッダの教えをあなた方に十分に知ってほしいのはこの理由からである。
私もまたその責を負っている。
ある人々は仏教が死の床にある。またはほとんど死んだという。
もしそうであれば、それをより良い位置に高めることがわれわれの義務である。
我々は幾分かは熱狂するように行動しなければならない。
他の人々の間に敬意を吹き込むために。
われわれは庭園とか寺を持つだろう。そして、そこで講演を用意できる。
私は本を書くことによって、またあなた方の疑問を取り除くことによって最善を尽くそう。
今日、私が望むすべては、あなたがたが私を信じてついてきてくれることだ。
あなたがたが私に寄せてくれる信頼は、個人的な利得に使用されはしない。
そして、私はあなた方のすべての疑問を満足させるよう努力しよう。
大いなる責任があなた方の両肩にものしかかった。
マハールは何もしようとしない、このことが悪名をもたらした。
あなた方は尊敬を受けるに足りるような生活を送らねばならない。
この宗教が犬の首輪のように、あなた方の首を縛るなどと考えてはならない。
我々のこの国に関する限りでは、仏教は荒れ果ててしまった。
しかし今や、あなた方はこの宗教に帰依するよう真剣に努力し、
また仏教がかって到達した位置を常に心に留めていなければならない。
もしあなた方がそうしないなら、人々はこの改宗を嘲るだろう。
この宗教はこの国だけでなく、全世界に奉仕することができる。
世界情勢のこの時点に、仏教は世界平和のためになくてはならない。
あなた方は今日、誓わねばならない。
あなた方ブッダの信徒はあなた達自身を解放するだけでなく、
祖国と世界全般を向上させるよう努力することを。
私が平和に背いているとして報道されているが、このことは正しくない。
私は平和のためにある。
しかし正義に基づく平和であって、墓地の平和ではない。
正義が世界で尊ばれない限り、そこにはいかなる平和も存在しえない。
仏教が、仏教のみが世界を救うことができる。
あなた方が手にしたこの仕事は大いなる責務である。
あなた方は懸命に働かねばならない。このことをあなた方は留意せねばならないだろう。
今までわれわれのほとんどが、ただ自分たちのパンとバターにだけ関心を持っていた。
自己中心的であってはいけない。
あなた方の考えに利己的であってはならない。
われわれはこの偉大な宗教の布教のための金を必要とする。
わたしは他の国からどのような金銭的援助も求める気持ちはない。
あなた方は収入の少なくとも20分の1をダンマの布教に寄付することを決心せねばならない。
バグワン・ブッダは自ら入信の儀式を営まれるのを常とした。
それが一人の人間にとって処理しにくくなったとき、彼は弟子たちの中の能力のある人々に分け持たせることを認められた。
あなた方はヤシャという人の名前を聞いたことがあるだろう。
彼は裕福な家庭の跡取りだった。ヤシャはブッダの弟子となった。
そして彼の後に続く四十人以上もの人々がいた。
バグワン(世尊)は彼に語った。
「私の教えは多くの良きことのためにある。
それは多くの良きことのうちに多くの幸いがあるからである。
このことは初めに善く、半ばにしてよく、終わりに善いのである。」
そうだ。兄弟たちよ、これが私の宗教なのだ。
ブッダは彼の教えの布教のために、その当時の状況にもっとも適合した方法を採用した。
従ってわれわれもまた、現在の状況に最も適した方法を採用せねばならない。
この仕事をする比丘はこの国には一人もいない。
だから、あなた方一人ひとりが「ディキシャ」(回心)をせねばならない。
ひとりの仏教徒は彼の信仰に他の人々を改宗させる権利をもつ。
もし、後々、分裂がやってきても、われわれはその事態に対処するために備えなければならない。
われわれはダンマの公布のために大きな組織をつくらねばならない。
すべて一人ひとりの仏教徒は他の人々を引導し改宗させる力を有している。
私は今日、声明する。
行きたまえ、ブッダの福音とともに。
行きたまえ、人々を解放するために。
(1956年10月15日、ナグプールにおける改宗式翌日の演説)
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