昭和50年9月29日逝去 87歳


大 日 寺 物 語
                  冨士  顕道 著

     
『これより大日寺、太山寺道の道標』

 長田交差点より太山寺行きの全但バスが毎日五、六回も出て、三里以上もある太山寺へわずか三十円で居眠りしながら行ける現在、昔の人の思いもしなかったことが実現しておりますが、車が太山寺を経て、明石市に行くようになったのは終戦後すなわち昭和三十五、六年ごろのことならずや。
 それまでは車村より奥は道路も細く白川峠は難関でした。そのまた以前、すなわち明治の二十四、五年ごろに初めて白川峠を切り開き、車村および妙法寺村を経て板宿、西代、兵庫へと出るようになったようで、それまでは長坂を下り現在の丸山花山町より大日すなわち明泉寺村を過ぎて長田より兵庫へ出るのが本道でありました。その証拠に長田の宮裏には、「これより大日寺太山寺道」と大きく立派な道標がありましたが昭和二十年三月十七日の大空襲後、何もかもむちゃくちゃとなりところ構わずバラックがたつのに邪魔になるために、道標も取り去られ、どこへやったのかと心ひそかに寂しく思っておりましたところ、その後、長福寺の境内に建てられてあるのを見て心うれしく思いました。次の道標は明泉寺橋を渡り、少し坂を上ると左へ入る細道があり、古くはこの道を大道または上の道と称し、左下の田圃は元藤田の吉兵衛水車のものなりしが、その後、愛久澤の所有となり、大東亜戦で愛久澤も無一物となり、この地は神戸市の所有となり、長年の稲田は変じて、日米ハローと称して、和洋並び立つ住宅となり、昭和三十三年十月より人が住むようになりました。したがって、大道とか上の道は知る人も無く、その跡も無くなりましたが、この日米ハローを下に見ながら奥への細道を登ると、右へガサラの中に通行止めになって居る所を登り、川崎寮の上の方の寮と道に沿うて、今工事中の山すそに沿いながら、堀切の方へ通じたもので、その分かれ道の角にありました道標は白泉嶋吉氏の厚意で、現在大日寺の境内に保存しております。
 次は丸山小学校入り口より少し上右側に大きな赤松が、二本ありました。この辺りは野山のこととて見渡す限り笹山で樹木というほどのものは一本もありませんでした。故にこの二本の赤松は特に大きく遠くからでもよく見えよりました。
 通称、堂の口の地蔵松というておりましたが、西尻池の池本勘次郎氏の父、池本文太郎氏の代に口一里山一帯を坪二銭くらいの勘定で長田、池田、東西両尻池四ヶ村より買い受け、開墾を始め、「開き山」と称し、花山町はそのとき花山公園と名付けられた。その後、武岡豊太氏に変わり、次に木谷周造氏より現在に至っておりますが、何しろ神戸土地会社は営利会社のことなれば名所とか旧跡などには考慮なく、いつと言うことなしに二本の松もお地蔵さまも姿を消してしまいましたが、元至誠館館長、安沢利作氏が大昔から往来安全を守ってきた旧跡のなくなることを悲しまれ、口一里地蔵跡との石柱を立てて下されたお陰で、今日、雑草の中にあって、わずかに石柱の頭だけ見受けるという哀れさなるも、石柱のおかげでありし昔を偲ぶことができます。新しいものはいくらでも作ることができますが古跡は一度なくなれば再びお金の力ではできないものを、心なき人の多い世に安沢氏のごとき志し厚き人を失い、残念に思われてなりません。
 このところをなお少し行くと、四つの辻ならぬ五つの辻となり突き当たりに、藤岡藤太郎氏の世話で、昭和三十三年六月二十二日に落慶法要があった他我見地蔵尊のお堂があり、このお堂の右の道を行けば萩の庄へ、一度小川を渡り、真っすぐ正面に向かって登れば古明泉寺跡へ、小川を左へ登る道を長坂と称し、だらだらと長い坂を上り、上り詰めた辻にお墓のような形の、南無地蔵大菩薩と刻んだ石塔がお祀りされて、黒松が二本ありました。これより道は少しずつ平となり、行く路の右側東へ二丁のところに古明泉寺跡に至る、先刻、小川で別れて登った所と同じところに至る。この地を古明泉寺跡といえども伝説のみで、確かにここであると断言する何物も、例えば古い瓦のたぐいも見当たらないために強く言い切ることもできませんでしたが、四ヶ村共有の口一里、中一里、奥一里の大地面には出ていたようにも思います。一時は、土地だけでもと復興の念に燃えたこともありましたが、この地面も大空襲で焼けてなくなり、今では伝説のみで証拠もありません。でも今後、なにかの折りに寺にちなむ何かが出るかもしれないと思っております。

『白川の一本松』

 さて古明泉寺の跡を右に見ながら古道を行くほどに右側に白川の一本松とて低く枝を張った老い松があって白川の人はこの松を見てやれやれ帰ってきたと気も安らかに、しだいに下る坂道に足どりも軽く、近づく我が家へ急がれたものである。そのころ村人が兵庫へ行く朝は、子供の寝ているうちに、星をいただいて、割木やその他いろいろのものを軽子に担って家を出て、兵庫で用事を済まして、またいろいろの買い物をして、往復六里ほどの道を月明かりを踏んで、疲れてわが家へ帰れば、わが子は早や寝ているのがふつうだったとのこと。
 白川の村を過ぎてなお奥に行くほどに道は二股となり、右は木津へ左へ取ればまもなく布施の村に入り、妙楽寺という吾が明泉寺と本山を同じうする寺を右山手に見ながら、村を通り過ぎ、ほどなく原始林内に道は通じ、左は一大渓谷美をなすに至る。白川付近一帯の水を集めた小川の水もこの渓谷で瀬を成し、瀧を為し、渕をなすことによって浄化され、世にも美しい清水と思わせるにいたる。
 故に太山寺に詣るには明石の方より詣でて、再び明石へ引き返しなば、格別ありがたく尊い霊場として、永久に汚れを見ず知らずに一生を終わることならん。
 太山寺は藤原の鎌足公の息子さん定恵和尚が父鎌足と協力して建立された播磨きっての大寺で、幸いにも火災にかからず現在に至る。故に国宝に指定されている。
 ご本尊は明石の海より漁夫の網にかかり、引き上げられた薬師如来で、その時、お厨子代わりに入っておられた箱ごと、いまなお秘密仏としてお祀りされてあるように聞いております。
 いろいろの法要、行事、お祭りがありますが、四月八日のお釈迦様の花まつり(この行事は大正八年頃、東京の日比谷公園で初めて行われたもので、小生もたまたま在京中のとき参加したことがある)には乗り物もないのに大勢、兵庫からもお参りされたものなり。そのほかに旧の五月二十八日を梅まつりとて、大勢の百姓の方がお詣りされて、新漬けの、まだ梅干しとまで行かぬ、申し訳に紫蘇の色のついた梅を授かって帰るのを習慣とされておりました。夏バテしないまじないということでありました。
 そのために寺で用意する梅は二石ほどと聞いておりました。不思議なことに太山寺に詣でた人は必ず大日さんに廻り、お参りするというつながりになっておりました。故に正月、五月、九月の中で五月二十八日の梅まつりが一番大勢でにぎやかでした。大日寺で昼食されるので、寺ではおかずとして高野豆腐一つに、近くの藪に生える真竹の竹の子を適当に採って来たものを煮て、盛り合わせたものを一皿二銭で、またキュウリに薄揚げを少し入れた酢もみを一銭で売りよりましたが、お百姓はそれさえ買わずに、太山寺で授かった新漬けのカリカリする梅を前歯で少しずつ囓りながら、弁当を食べて、牛の為に、一組二銭のお守りを授かって、帰りは長田へ下り、須磨や明石を経てわが家へ夕方に帰られたものです。

 『お参りの由来』

 太山寺に詣でし人が、なぜ大日寺へお参りになるのかその訳が分かりませんでしたが、近ごろになってやっとその理由がわかったように思います。
 すなわち太山寺の梅まつりにお参りするのは、今日のごとく医学の進歩していなかった時代は身の健康はひたすら薬師如来におすがりしたもので、すなわち、麦刈り田植え草取りと五月という月は年中で一番忙しく、身体の疲れも格別でしたが、まず無事に一息入れようとするありがたさを思い、なおこのうえながら家内安全で我が身も丈夫でありますようにと医薬の王と崇め尊ばれるお薬師さまに詣でて、万病に効くといわれている梅を授かったものである。次に牛は家内の一員で百姓の宝としていた時代なれば、五穀の豊穣と牛の健康を受けもってくださる仏様は大日さまなれば農家にとっては大事なことなり。まずわが身の安全は先に願い、次いで豊年と牛のために大日さんにお参りされたものと思います。でも寺同士はなんの交際も付き合いもしておりませんが、いずれにある道標を見ても「大日寺太山寺道」と彫られてあるのを見れば、太山寺は天智天皇のお声がかりで藤原鎌足公の創建なるに対し、大日寺は聖武天皇の命により行基菩薩の創建なれば、相当の規模であったことが推測されます。しかしながら太山寺が釣り鐘とすれば提灯のごとき現在の大日寺ではあります。
 世に恐ろしき者は三つ、地震、雷、火事なるが、その火事に遭うてはかないません。
火は何よりも大切なもの、尊いものなり、恐ろしきものなり、要は心と手加減によって善とも悪ともなる。
 さて敗軍の将、兵を語るの感を深うしますが、わが大日寺の由緒に筆を進めてみようと思います。

 『大日寺の由緒』

 この寺は詳しくは天照山明泉禅寺、通称を長田の大日寺という。宗旨は禅宗の臨済宗で本山は京都東山の南禅寺。その末寺で寺格は二等地(現在は一等地)であります。
所は昔は摂津の国、八部郡林田村の内、長田村字大日または明泉寺というておりましたが、その後兵庫県神戸市林田区長田明泉寺となり、またまた林田区は廃止になり、昭和十八年三月一日より長田区に改まり、
現在では神戸市長田区明泉寺町二丁目七十二番屋敷となる。また、宮川町九丁目より丸山二丁目までを大日通りというようになった。
 この寺の真実の名は明泉寺なんですが通称の大日寺の方が名高く、良く人にも知られておりますので、県庁や市役所及び本山方面の書類等は明泉寺でなくては受け付けませんが、普通は皆、大日寺山の大日さん長田の大日さん、または牛の寺でないと通用しませんでした。昭和八年十二月二十三日に許可になった市バスも初めは大日寺行きで、翌九年の正月元日より花バス三台を迎え、丸山まで登りましたがそのころ丸山より乗る人は少なく何時何時運転中止になるかもしれないと心配したほどでした。
 元は家も八軒ぐらいであったために長田の奥の大日といい、寺は大日堂というていたようでしたが、寺の寺号をそのまま明泉寺町一丁目二丁目三丁目と改められたのはつい最近の昭和十五、六年頃のことである。この寺は昭和三十三年の今を去るおよそ七百五、六十年の昔まで、現在の地より一里あまり奥、現在の萩の庄の上の平らで景勝の地にあったという、この所を古明泉寺跡と伝え聞く。中一里山と称す。
 何の因縁でこのような所に寺が建ちしやと尋ぬるに、話はおよそ、一三〇〇年の昔、
神武天皇より四十五代聖武天皇の時代に行基という徳の高い不言実行の坊さんがおられ、悩み多き人の世に、特に哀れに思うは食べ物がなくて、飢え死に、行き倒れ、野垂れ死にする世の有様を見るにつけ、嗚呼、可哀想に気の毒なことよ、なんとか助けるすべはあるまいか、助けたい、救うてやりたいとの厚き思いやりと念願から、まず、五穀を豊かならしめねばならんと、人を集め、諸国の荒れ地を開墾して、田圃や畑を作り、五穀を豊饒ならしめることに専心努力された。
 かくて慈悲の手と思いは延びて、吾が真野の庄、すなわち、東尻池、駒ヶ林等の一帯にも及び、これらの田畑を養うには水が無くてはと、大きな貯水池を造られたのが蓮の池であったが、世は移り、田畑が宅地になり水の必要が無くなったために、現在、蓮宮通りにある蓮池小学校は昭和元年に埋め立てられ、市民大運動場は昭和七年四月三日に七十万市民歓喜のもとに開場された。この大工事を完成されたのは開出鹿造氏で、昭和三十四年八十九才で米寿の祝いの折り、紅白のお餅を大日如来にと自ら持参し、お供え下された。
明治の末期に、このあたりで大演習があって、最後に広々とした池の跡で、大分列行進が挙行されたときは、各学校の生徒は十重二十重に輪を成し、市民はその後ろからという大変な人出の中央で歩兵・野砲・馬と砂煙を立てながらの大分列行進を行い、なお、まだ後ろに空き地があったことを思うといかに大きな池であったかということが分かる。現在、史跡、蓮の池跡という石柱がたっておりますが嘘のような真実に大きな池であったことが思い知られます。機械力も無き時代によくもこの様な大工事が出来たものよと、ただただ驚くと共に、古人の労苦に対し、感謝の念を持たねばなりません。

『水源のこと』

 この池には水源が無く、故に苅藻川に求め、水路を池田前より長田の馬場先で北へ上り、光堂寺の左横をさらに、長田で立志伝中の道畑佐市氏宅の右横を上り、長田交番所に至るもので、今なお溝の一部を見ることが出来ます。現在の交番の所に樋、即ち水門または水の取り入れ口があって、下隣の家は樋の上にあったためか樋上吉太郎というて、今なお長田の旧家として残って居られるが、取り入れ口の様子はすっかり変わって、旧の面影は見られない。昔の八雲橋は川幅が今の倍ほどもあって、特に水の必要な時は八雲橋の下に土嚢を積んで、下への流れを止めて、蓮の池へと苅藻川の水を迎え入れたものなり。苅藻川は長田神社の横より宮川と改まり、上り上りて明泉寺橋で二股となり、左を西の川(または美谷川、現在の大日川)といい右本流は天神山の下行場を経て、馬ヶ瀧となり、なおも上りて大日温泉よりお池の尻に至る。その左の高峰に行基菩薩が寺を建立され、大日如来を安置して天照山明泉寺と命名されたのが元々の明泉寺の始まりなり。
 即ち、このあたり一帯の雨水、ヨモギの滴、萩の露の滴りを集めて、苅藻川に細く流れて蓮の池を常に満たし、田畑を潤し五穀を豊饒ならしめたまえと、大日如来に念願されたものなり。ほどほどにお照りがあって水にも恵まれて始めて五穀は稔る。それには諸仏の王たる中央大日如来の加護とお慈悲によると上下共に堅く信じて疑わなかった時代のことでありました。
 ずいぶんと大きく立派な寺であったことと思います。と申しますのは、何れにもある道しるべにも「従是大日寺太山寺道」とあるのを見て、そのように思うのであります。現在の太山寺と大日寺とでは比べものになりませんのに、同じように肩を並べて書かれてあるのを見て、何も知らない他国の人が参詣されなば、太山寺と明泉寺では相撲の横綱とふんどし担ぎを見るようにがっかりされたことと思う。
 しかし、これも是非の無いことで、伽藍広壮を極める太山寺は創建のまま幸いに火災に遭わず、兵庫県下まれに見る大建築なるに比して、明泉寺の方は運悪く、源平の戦いには平の盛俊の陣所となっていたために、義経の軍勢が高尾の峰より道を転じて一ノ谷に向かう途中、焼き払われ、平家は負け戦のために福原の都は焼け野が原と化し、荒れ放題で民家ですら復興ならず、明泉寺の如きもその分に洩れず。でも幸いに本尊大日如来は肩後にやけどを受けられたぐらいで無事なりしを、広泉長助なる人が嗚呼、もったいないと背に負ぶって山を下り、現在の地にささやかな大日堂を建て安置されて今日に至るかのように聞いております。

 『平の盛俊のこと』

 明泉寺を本陣と定めておいて、長田北部一帯を守備する大将は越中前司平の盛俊とて力二十六人力もある平家方では能登守教経に次ぐ豪の者なりしが、後ろより義経軍の来るということに気付かず、前の方にのみ気を取られ、名倉の付近を見守る頃、義経は盛俊の本陣、明泉寺を焼き払うて、一ノ谷裏に向かいつつあることを知らず、待てど暮らせど敵は見えず、天晴れ豪傑も相手が無くては戦にならず、退屈まぎれに田の畦に腰を下ろし、煙草でも吸って居られたのかもしれず、そこへ源氏方の猪俣小平六なるものが笑顔を作り、なれなれしく近づいて来て、「源氏が平家がと争い、勝つも負けるも同じ日本人なるにつまらんことではありませんか」などと合戦最中であることも忘れたかのように、のどかな気分で共に煙草を吸いながら相手の隙を窺うているとも心づかず、また取るに足らぬ源氏の蠢動虫ぐらいに思うて気を許していたのが失敗の元、油断大敵で、突然、力任せに下の田圃へ真っ逆さまに突き落とされた。折悪しく泥の中に頭を突っ込んだからたまらない。平家で名高い豪傑も訳の分からない猪俣小平六ごときに首を挙げられ、英雄の末期の哀れさ、儚さをとどめられし所は元の名倉郵便局の近くの塚であって、時の名知事服部一三氏の筆によって、大正十年四月二十八日に建てられた盛俊塚こそ悲劇のありし現場なりと聞いております。
 源平の戦いがあったのは平家即ち安徳天皇の方では寿永三年二月七日で、源氏が立てた後鳥羽天皇の方は天暦元年の二月七日の出来事でありました。平家の運命はあまりにも悲惨な末路となり福原の都は一日にして再び建つあたわざるに至る中に、明泉寺は本尊と共に現在の地に降りて、およそ七百六十年になるのではないかと思います。権勢は勝つも負けるも時と共に過ぎ去り、跡形も無くなりますが、平和と国土安全の願い、五穀の豊饒を祈願する大衆の願いには利益をお与えくださる大日如来の慈悲心の有り難さを念得し、心に満足を得るもの多きと聴き、参拝は今に絶えません。 人に仏性あり修せずんば出でず。石に火あり、打たずんば出でず。利益は信仰と努力によって精神的に得るものなりと堅く信じたきものである。

 『小僧の生活』

 私が大日寺へ小僧に来たのは明治三十年頃であったように記憶します。兵庫の八王寺の前に、日清大戦争(明治二十七、八年)日本大勝利の油絵などを売る店があって、子供のこととて欲しくてたまらず、買って長らく楽しみなどしていた頃で、いまは思い出もおぼろげになりました。
 その時分、大日寺には大きな楓が二本あって、一本は現在の手洗い鉢の前にあって傘のように枝を張り、金茶色に紅葉してとてもきれいでした。もう一本は現存する牛の銅像の右向こうにありました。これはまた、真紅に照り、その美しかったことは譬えようもありませんでした。下の床几に腰掛けている人の顔まで紅く照り返されて綺麗でした。二本とも一行寺楓とて、葉の大きさは子供の手のひらほどもあって、樹の幹も子供の私では三抱えくらいありました。枝は境内の半分ほどを覆っておりました。現在、保存している写真によって、真景を知ることが出来ます。撮影者は現在の神戸南蛮美術館を創建された池長 孟氏の父君、池長 通氏で、一般に写真機の幼稚な頃に、手のひらに載せて写されたのにはびっくりしました。先頃、徳川夢声氏がはじめてゲルマニュームで発声するトランジスター・ラジオを聴いて驚かれたのより見れば、当然のことなり。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             後日、頂いたのが、この写真で、不思議なもんやな、と感心したものでした。この写真のお陰で、方形造りの大日堂と比較して楓の樹がいかに大樹であったかを知ることが出来ます。その頃は現在と違い、電車もバスもなくどこへ行くにも歩くばかりで、秋の紅葉見といえば、禅昌寺か大日寺に限られておりました。旧の天長節、即ち十一月三日では紅葉にはまだ早いのですが、もみじ見頃と書いて、特に紅くなったもみじの枝を添えて、長田さんの門前に川越庄太郎とて、長田名物塩昆布を売る家の格子戸に吊らせて頂きよりました。その時分は日曜たびに休む人は珍しく、故に天長節大どんたくといえば、時候は良し、その日が来るのを待ち焦がれ、楽しんだものです。
 楓樹の下の床几にはござを敷いて、煙草盆が置いてある。今でいう観光客が腰をかけ、休むかどうかを見ていて、さっそく、万古焼きの急須に番茶を入れて持っていくのは私の役でした。嫌なこともありましたがお茶代欲しさに、よく務めたものです。 お茶代は二銭三銭が普通でときには五銭の白銅や十銭の銀貨がお盆の上に置いてあると、ほくほく顔でとても嬉しかった。なかには、むしろを敷いて、いわゆる林間紅葉を焚いて酒を温む連中が来ると、お茶代として五十銭の銀貨を頂くこともあり、跳び上がるほど嬉しかった。それらは私には頂けず、寺に納め、暮らしの助けにすることになっていましたが、ちょくちょく、へそくりよりました。いや、とんだ弁天小僧がいたものです。
 その頃の五十銭は男なら二日分、女なら五日分ぐらいの日当で、ずいぶん値打ちのあったものなり。
 故にこの時分に心配するのは二百十日、九月二日前後の大風でした。一度大風が浜の方から吹くと、楓は一晩のうちにちぢれて見る影も無き哀れな姿に変わり、その年は紅葉も見られず、従ってお茶代も稼げず、お手元不如意で、心寂しく思いよりました。

 『一行寺楓』

 この楓は普通にそこいらにある楓と違い、真紅に紅葉する一行寺楓とて、種が高価に売れたものです。その時分、長田に広田という大きな植木屋があって、一升一円五十銭で買うてくれるのが嬉しくて、丹念に針で突き刺して拾い集め、一升になるのを待ちかねて、持っていき、一円五十銭を受け取るときの嬉しさは格別でした。この楓は三分の一は下のよその地面を覆っていたために、村の子供も我も我もと拾いに来よりましたが、しまいには上の境内にまで入って来るので、拾わせまいと競り合った懐かしいガキ仲間も今では誰もいなくなってしまいました。思えば古し、六十年も昔のことですものね。
 寺の生活費の一部ともなり、私にもお菓子を買うお金を稼がせてくれよりました楓も、秋(飽き)の紅葉、いや楓の方が土に飽いたのか、または天寿を尽くしたのか、ある年の春、新萌えが美しく出始めた頃に、大霜が襲い、新萌えは真っ黒になったことがあって以来、次第に衰え、ついに枯れてしまった。今日、存命ならば天然記念物として保護もされ、大したものなるにと、残念に思うが是非も無きことなり。その後、私はかなり広く旅行して、心掛けておりますが、一行寺楓としては今尚、見当たりません。近くの鈴蘭台のお寺の桂冠木が天然記念物に指定されていると聞いて、わざわざ見に行きましたが、私の目にはなんだ、こんなものかと、あほらしく思えてなりませんでした。
枯れた楓で記念のためにとお盆と煙草盆を作りましたが、樹液から砂糖が採れるくらいなので、虫が付いて駄目でした。昨今ならば、色々の薬が出来ましたから、虫を除くことも出来たにと思います。
 古明泉寺より現在の地に移って来た当時のものとしては、大楓が枯れた今日としては、九死に一生、わずかに生きている真柏が有るのみで、御本尊以外、何物もありません。この真柏も隠居所を建てる際に、やむを得ず切り、今では株を保存している。ただ石垣の一部に古えの面影を見ることが出来るばかりです。ただし正面石段に向かって、左側の石垣が創建当時の石垣です。中程に膨らんだ所あり、これは楓の根が押し出したものなり。大風が吹いて楓樹をもの凄く吹きまくるのを見ていると、樹も倒れ、石垣もはじけ出し、崩れはせぬかと恐ろしく思いましたが、今では樹も枯れ、その心配は無くなりましたが、石垣の方は膨れたままです。石垣の膨れている理由は私以外に知る人は無く、故に拙い筆ながらもちょっと書き残した次第です。

『本堂・庫裡改築のこと』

 名木の楓樹が枯れた後の大日寺の境内は寂しく、観楓の客も無く、有名であった寺も建物は次第に荒れ、雨が漏り、夢路も安く辿れなくなりし頃、西尻池は高福寺、東尻池は極楽寺と立派な普請が出来、長田の各寺にもお金が下がるとのことに、訊ねてみると、蓮池等を処分した公金は、学校または公会堂および寺以外に使用出来ず、個人への分配は絶対に出来ぬ由でした。蓮の池とは何の因縁も無き寺々がお金を頂くのに、池とは切っても切れぬ明泉寺に分配の無きは不合理なりと思いましたが、権威ある村の役員はみなそれらの寺々の総代や世話方なるに比し、無檀無禄の明泉寺にはそれが無く、故に公の席で明泉寺にもと強く言葉を添えてくれる人の無かりしために悲しく、色々、理由を述べ、願書も出して泣きつきましたが、尻池の方は蘇川氏の曰く、公金の処理分配はすべて片付いた今日、何とも致し方ありませんとのことでした。長田の方は千円也を分配するからとの通知に有り難いやら悲しいやらで、胸は穏やかならず、長田協議会長の谷口庄一氏に今一度、貧寺の明泉寺のために格別の同情を下されたいと再三お願いした効むなしからず、千円也が三千円頂けることになり、協議所へ呼ばれて、我が手に三千円を受け取った時は、始めて確かに頂いたと感激に身が震えました。
 他のお寺に分配された額に比較すれば、蚊の涙ほどと理屈も言いたくなりますが、へたなことを言うて虻蜂取らずになっては大変と有り難く頂いて、早々に帰りましたが、その夜は三千円のお金が気になり心配で寝られませんでした。このお金を基金として多年の宿願を成し遂げんと、いよいよ改築の念に燃え、悩み苦しむ私に同情して、シブチンで名高かった中島シカ老婆が思い掛けなくも三百円也を即金で寄付して下されたには嬉し涙が止めどもなく流れました。是に倣いて西伊三郎氏も三百円也を志納下されたのが最高で、下は一銭に至り、およそ一万五、六千人からの零細な浄財が集まって一万数千円となる。
 私は酒も呑まず煙草も頂かず、剃髪は自分で、風呂は児島源吉様始め、あちらこちらで入れて頂き、電車にも乗らず、その頃は一区二銭でしたが、往復で四銭が助かると思い、不要な物は売り払って、すべてを建築費一筋に流し込み、遍く浄財の喜捨を乞うた。
 「水の滴りかすかなりといえどもようやく大器に満つ」の格言を信じて、実行せし効空しからず、資金の次第に増していく嬉しさ、君子は財を惜しむ、これを用いるに道ありで、ただただ金かねとお金の亡者となり猛進しました。
 
 でも幸いなるかな、絹屋こと橋本寅之介という大棟梁の同情を得て、万事好都合に話は進み、すべては橋本棟梁と私とで進行して行きました。従って無駄な費用は一銭も消費せず積み立てに専念しました。
 私がこのように苦心して零細なお金を集めているとも知らず、わずかな縁故や手づるを求め、我にさせよ、私に請け負わせてくれと入れ替わり立ち替わり、真実に寺を建てるほどの力も技術も無き大工までが頼みに来るのには困りました。が最後は正法寺のその後祥福寺に出られた臥牛軒長廻(ながまわり)正元老師のお言葉に従い、やはり橋本棟梁を信じ頼むことにして、他にはそれぞれ多少の鼻薬で断りました。
 表向きは一万二千八百円でお願いして、内では夜となく昼となく、できるかぎり山内一同、力を合わせて成功を祈りながら、お金集めに努力を続けるもなかなか思うように集まらず、棟梁の曰く、普請に着手すれば寄付も頼みやすいからと励ましてくれたので、少々心配しながらも、昭和六年九月一日に起工式を挙げ、いよいよこれから募財に馬力を掛けようとする九月十九日の朝、突然、号外が飛び込んで、満州事変の火蓋が切られた。我が日本国が昭和二十年八月十五日敗戦、無条件降伏のやむなきに至りしはこの時に始まる。 
 その頃、町の役を務めていた自分は、なにかと多忙となり、飛行機献金を各家庭に十銭以上頼んで回るなどで、寺の寄付どころでなく、一時は中止とまでなりかけましたが、棟梁の理解で大工を減らし、三人程でこつこつと続ける反面、私は肩身の狭い思いをしながら、あちらこちらと来る日も来る日も気を遣いながら、心に油断無くお願いに回り続けたお陰で、どうやら目鼻が付いてきました。
 工事の方も、次第に進んで行き、これぞ仏天の加護と申しましょうか、不思議にも意外に万事好都合に運び、棟が上がり、骨組みが立派に出来上がった姿を見たときの嬉しさは格別でした。もうこれで死んでもよし、とさえ思い、感激しましたが、百里の道は九十里をもって半ばとする、との古人の教訓を守り、なおも蟻のごとくに働きました。この間に、やましい議論や犠牲らしい事故も起こらず、但し、手伝いの一人が昼食後、いざ仕事にかからんと足場の丸太に飛び付いたとたん、細かった丸太が折れたために仰向けに倒れ、背中をひどく打ち、一時はびっくりしたが、それほどの怪我でもなく助かりました。また佐藤さんという手伝いが瓦を肩に西側、即ち、お墓の上を北に向かって行くとき、足を滑らし倒れた時こそ、お墓の中に落ちたかと思いましたが、さすがは手伝いのベテランだけあって、無事なりしが、下で見ていた私はさー大変とあんなに心配したことはありませんでした。それ以外にはたいした危ないこともなく、この大工事を無事に完成することを得ましたことは、真実に仏天の加護なりと法悦を感じました。

『落慶法要』

 内外共に勿体ないほどすべての物がそろい、いよいよ昭和八年五月十二日より十四日に至る三日間に亘る入仏供養慶讃大法要を営むこととなり、初めの十二日は小生が修行させて頂いた南禅寺管長河野霧海老大師を始め本山役員諸大徳のご光来を忝のうし、兵庫派中は申すに及ばず、禅昌寺派各寺尊宿のご随喜を願い、福聚寺足立慧補師のご厚意で休息させて頂き、長田公会堂(元東宝映画館の前身)で勢揃いして、寺院方はいずれも人力車で小生は香を焚きながら先頭露払いとなり、老大師につづいて各尊宿および稚児男女七十余人等の大行列で静かに練り来る。宮川九丁目よりは道路の両側に大日寺入仏慶讃大法要の提灯が飾られ、金紙銀紙のビラが薫風に吹かれ翻る美しさ。楊柳の風、面を払えども寒からず暑からずの好天気に恵まれ、坂の頭に来れば緑樹で作る大歓迎門に迎えられ、やがて山門を上り、新築の本堂、真新しき荘厳道具に飾られた内陣に着席したときは、ただ感激で目頭の熱くなるのを感じました。
 法要は形のごとくに始まり、来賓の祝辞なども受けて、無事滞り無くすべて終了す。すべての新しき中に、小生の法衣等は新調出来ず、法兄直山元珠師の厚意で拝借し、下駄まで中古品で済ませしが、我が心は誠に朗らかであった。
 十三日は、後の国泰寺管長、勝平大喜老師を迎え、法要並びに老師お得意の名調子で午前と午後の二回に亘る大講演に参詣者一同随喜の涙にむせび、夜は南禅寺教学部長三木五葉師のお話を聴講する等々。
 十四日は前妙心管長五葉愚渓老大師を祥福寺よりご光来を忝のうしての総供養に引き続き宗佐田寿寛師の一行五十余人で、下の広場で大護摩供養等で三日間、暖かで静かで申し分なき入仏日和で大変な賑わいでした。
 接待の甘酒も三日間に四斗樽三丁でも足らず、最後にはお粥を炊いて白砂糖を入れて出すなど、大変な騒ぎや賑わいの中に無事平穏に終幕となり、翌十五日は曇天となり、提灯その他を取り入れ、荒々片づいた頃より、大雨降りとなり、雨休みで皆々連日の疲れをいやす休息日となる。
 寺崎芳堂氏が「青嵐ちぎれ雲さえなかりけり」と詠まれた句のごとく、三日間だけ誂えたように好天気で不思議に思うたくらいなり。明泉寺の建築材は全部寺崎氏が入れて下されたものなり。芳堂氏の幼い頃の寺崎一家が一時、橋本棟梁のお爺さんに助けられたことがあり、大恩人なれば棟梁を通じて、恩を明泉寺に還して下されたようなことになり、求めざる幸福を与えられたようなものなり。
 芳堂氏はその後、材木屋を止めて、現在では大津市粟津で芭蕉の「木曽殿と背中合わせの寒さかな」で有名な義仲寺に納まり、もっぱら句三昧で余生を送っておられた。木魚と共に、名句に節を付けて連続でお経のように称えておられた。

『戦争、空襲、敗戦』

その後、寺の方は別に変わったこともなく過ごして参りましたが、お国の方は満州事変が上海事変となり、大東亜戦争とあまりにも長く続いたために、国は痩せ人も疲れ果てて、大変なことになり、昭和二十年の春には、寿永の昔、平の盛俊の陣所になったごとく、不思議にも再び皇軍の陣所となり、兵隊が五十人ほど入られ、愛久澤邸におられた隊との連絡や交渉で出入りが激しく、私ら一家は居る処もなく、片隅に小さくなって毎日を過ごして居りましたが、再々の警報や空襲となれば電灯は消えるし、戦々恐々として今日こそ今晩こそ焼けるものと思いながら、助かるものなら助かりたいとご本尊大日如来に念じておりました。その頃には、仏像類は万が一の時は何時でも避難できるように、戸口まで出してありました。
 艦砲射撃のあった夜などはもの凄い音が唸り、地獄のようで名倉小学校や家々が焼け落ちる音や炎の勢いに、この本堂も震えて揺り上げ揺り下げるように思われ、嗚呼、とうとうと思い、悲しかった夜もたびたびありました。
食事は米も麦も不足で大豆が主食で、為に慣れるまでは皆お腹を通し、汲み取り人は来ず、便所の始末まで私が指図して兵隊と共に片づけるなど、今思うても戦争はいやだいやだ・・・。でも町内の人は野良犬のように食物をあさり、走り回るときに、私ら三人はたとえ大豆にもせよ、兵隊から公でなく同情的に頂いて、三人顔突き合わせて頂いたことも、今となっては涙の出るような思い出となりました。
 それでもがんばれがんばれの一点張りでしたが、隊長の若松中尉には、はや解っていたらしく、いま思うと八月十日頃であったかと思いますが、今晩、ぜんざいの馳走ありとのことに、皆大喜びで、まだかまだかとお釜の縁に蟻かあぶら虫の如くに集まり、炊事軍曹にまだ早いまだ早いと怒鳴られても、なかなか千松ならぬ古参兵の親爺までも、甘いぜんざいと聞いては、喉を鳴らして居られた。
 私もお情けに預からんと、胸どきどきで配給を待ってやっと頂いたのが、お椀に軽く一杯づつでした。それでも大の男が皆お椀を舐めたり舌なめづりをしておられたことなど、今思うと夢のようなり。次いで翌日でしたか、本堂の前庭でビールの樽を抜いて大宴会で、久しぶりに皆明るい朗らかな顔でしばらく何事も忘れたかのようでしたが、後から思うと、これが最後と若松隊長の総花的離別の酒宴であったことを知りました。
 やがて驚くべき情報を耳にしたのは昭和二十年八月十五日正午でした。無条件降伏との陛下のお言葉を聴いた瞬間、泣く人、喚く人、怒る人、人さまざまの思いは譬えようもなく、今にも黒雲は天を覆い、恐ろしき魔の手が襲いかかるのではないかと思われる重苦しい不安の中に蜘蛛の子を散らすが如くに淋しい散会。負け戦の寂しさ悲しさ、しばらくは呆うけたようでした。日本の国威は急転直下、嗚呼、悲しいことなり。 長らく居られた大勢の兵隊が引き揚げた後の寺の内外は、ずいぶんと荒れて大変でしたが、神戸全市は申すに及ばず、長田付近も焼け野が原と化したことを思えば、国が滅びるという時代なるにとても助かるまいと、まことに勝手なことながら焼けるか助かるか、今日か明日か、今ぞ見納めになるかと観念した寺も奇跡的に助かりました。寺だけでなく三月十六日夜半よりの大空襲には周辺が火の海と燃え盛る中にも助かり、その後たびたびの空襲にも明泉寺町内に限り、瓦一枚も割れず、無事に逃れたことは、何と思うても不思議でした。
 翌十七日の早朝には、トタンの浪板に乗せて本堂に運び込まれた痛ましき死体は十四、五体もあったように記憶しております。翌十八日は彼岸の入りであったので、心ばかりの回向をせしも、弔う人はほんの二、三人という淋しくも悲しい有様でした。
 今ではそのようなことを言う人も思う人もありませんが、その当時は誰も彼も大日様のお陰で助かった、有り難い、勿体ないと言われ、私も耳にして、共に無事を喜びましたが、喉元すぎればなんとやらで、今では知る人語る人だにありません。もし、あのとき焼けていたら、徳無く、力尽きた私にはとても復興は出来なかったでしょう。 
 幸いに焼け残りました上は、行基菩薩の意思を受け継ぎ、国土を安穏にして五穀を豊穣ならしめ人心のやわらぎを願う信仰の道場としてとこしえに栄えることを念じてやみません。

 『大日如来』

 さて大日如来と申す仏はつぶさには南無中央大日如来とて諸仏諸菩薩の最高位におられる仏様なり。国のまつりごとでも同じこと、県庁で決定したことでも東京のいわゆる中央で、警察でも地方で大丈夫と思ったことでも警視庁で通らぬこともあるように、すべては中央で決定されて初めて、効力を発するごとく三世には三千諸仏ありといえども、中央と称える仏は大日如来に限られておるようであります。
 故にわが国では国を治める根本仏として造り祀られたのが奈良の大仏すなわちビルシャナ仏で、今から約千二百五十年前、天平勝宝四年四月九日に開眼供養されたものなり。大日霊貴尊、オヒルメノミコト、すなわち天照大御神アマテラスオオミカミ様は大日如来を母体としてお生まれになったものなりとの説があります。いわゆる神仏混淆、本地垂迹説であります。弘法大師は大日如来の教えによってあのような尊いお方になられたことを指して大日如来を母体として生まれられたというように、それは肉体的の母体ではなく、精神的感応的母体のことであります。それにしてもアマテラスオオミカミさまは神代の方なるに比べ、仏教すなわち大日如来の教えが日本に入ってきたのは二十八代欽明天皇のときで、四十五代聖武天皇の時代に至り国教とまでなりしがアマテラスオオミカミと大日如来とは時代に大きな食い違いがあり合理的でないと言う人、思う人は無論ありましょうが、行基さまが言われる神仏混淆するとは、いまだ神とも仏ともいわれない太古にさかのぼり、例えばニニギノミコトと此花咲くや姫との和合によって皇室が生まれ、猿田彦とアメノウズメノミコトとの和合によって、われわれの先祖が生まれたと明治時代までは信じられていた。猿田彦を力(神)とすればアメノウズメノミコトを慈悲(仏)とし、力と慈悲の結晶がわれわれお互いの身体であるという道理から神仏混淆説を唱えられたものと思います。即ち差別の上では世界三十億に近い人類は皆別々なようでも、平等の上では人間という陰と陽との結合に帰することになる。陽が男で陰が女とすれば、大日如来を母体としてお生まれになったというアマテラスオオミカミさまは先にも述べた如く、肉体的でなく精神的に宇宙の真理を仮に大日如来と名付けたそのものを感得され、次第に人格を向上されたことを指して大日如来を母体とされたとか大日如来よりお生まれになったとか申すのではありますまいか。
 真理とは例えば火は誰が触っても熱く、水は冷ややかなることに変わりなきがごときを指して真理というのではありますまいか。いずれにしても火は尊いもの水はありがたいものと信じ、阿蘇山や大島の三原山の噴火を見てはご神火と尊び、水は水神様とて、有り難いもの勿体ないものと素朴に信じていたころの方が世は泰平で安らかだったのではないでしょうか。
 科学は日日夜夜に進み、すべてが解剖的還元的となり白日の下に晒さなければ承知出来ないほどの今日となっては文化文明の大都市ほど迷うものが多く、易者や新興宗教が盛んであるように、解るほど解らなくなり、真理すなわち自然界および動物植物等に対する有り難い勿体ないというような精神的及び道徳的なことは一笑に付せられ、暖かみも潤いもなく、口に平和を唱えながら進歩するものは、みな人殺しの道具ばかりというのが現在の世の有り様のように思われます。故に、今日ではアマテラスオオミカミさまや大日さまの話はとんと流行りませんが古くは固く信じて疑いませんでした。その証拠に天皇さまはじめ高位の方より武将に至るまで仏の教えを信じ入道されたことを聞いております。入道とは仏が示された教えに従うことで、何も頭を剃って坊さんになるばかりでなく、「平常心これ道」すなわち、天は高く地は低く、人はその間に生まれ、和合の下に働くという仏の教えを守り、常に安らかな心を持ち続けるように心がけることと思います。人は道すなわち規則を守らなかったら、我が身のためにもならず他人にも迷惑をかける。車も道を守らなかったら道から転がり落ちて事故を起こすように、道すなわち規則を守るということは自由の反対で窮屈なこともあるが、世のため人のために安らかに平和な暮らしを続けるためにはイヤでも守られねばならぬものが道だと思います。神道というも仏道というも、みな平等にして、平和な道の歩み方を教えられるものなり。
  以上のごとき意味合いにおいて大日如来は水のごとく無味無臭なるも万能に応じて働かれ、すべてに支配力を持つ仏なりと言い得ると思います。故に中央大日如来すなわち誠の道を教えたもう仏という。闇を破りあまねく明らかに世間を照らしたもう真実の仏という意味なりと思います。太陽といえども私どもにとっては昼夜の別がありますけれども大日如来は、親を親とも思わぬ極道息子でも、親は常に心配しているごとく、魚は水の恩を思わないけれども水の方は魚より離れることはないように大日如来の慈悲の光は昼夜の別なく輝いていて、魚にとっての水のごとく、人にとっての空気のごとき尊きものを大日如来と言うのだと思います。
 ところで人間というものは妙なもので、口では平和平和と言いながら少し平穏に慣れると、平凡なというて変化を求め、スリルを喜ぶ癖があります。それが高じてくると喧嘩となり闘争となり戦争となり平地に波を起こすことになる。故に万徳円満な大日さまのような方ばかりでは収まりがつかぬことが起こった時の収め役のような格で脇持として不動明王や毘沙門天さまのような質実剛健な厳しい用心棒が出張ってこられる。
(注・大日如来の脇侍に不動明王や毘沙門天を配置する形は、法道仙人にゆかりのお寺に共通するものです。摩耶山天上寺も同じ配置です。)
 
 『大日如来と牛』

 私どもお互いの主食物は五穀なり。故に農家は大日如来にお願い申して五穀の豊饒ならんことを願うとともに、農耕に必要欠くことのできぬ牛が健康であるようにと現在でも昔ほどではありませんが、相変わらず、遠方からお参りになります。
 私が小僧のころには西は明石在より東は篠原六甲あたりから牛をきれいに飾って、お参りになり、そのころはお寺の付近に家は少なく、広場があったので、柿の木などに繋いで置いて、ご祈祷してやってくれと頼まれると、小僧の私は牛の鼻面でこわごわながら、一生懸命に心経を誦んでやると、牛は案外おとなしく観念するらしく、飼い主も大日さまにお詣りしたと気を良くして帰られたものです。
 ある時、大石川の川上で篠原の高橋半兵衛という老人はたいへん牛が好きで、素晴らしい立派な雄牛を追うてお参りされたが、牛は大きく真っ黒で艶々と光っていた。角には角巻きをして、首には首輪を、背には見事な鞍を置いて真ん中には緋縮緬に黒繻子の字で造ったのぼりを立て、足にはわらじをはかせて、とてもきれいでしたが、男牛(コットイ)のことと、なんとなく恐ろしく近寄り難く、ウジウジしている私に、大丈夫、女牛よりおとなしいとのこと。猛牛といえども心静かにかわいがってやれば、少しも怖いことも危ないこともなく、わが家では子供が牛舎に入って、毎日ぞうきんで拭いてやるとのことでした。
 その老人はそのころ祥福寺の愚渓老師様と同い年であるという達者自慢の老人でした。またこの牛の力を利用して花木や加納(造り酒屋)に出入りして、酒米を入れたり、また六甲の山より出す庭石で、他の人では手に負えぬくらい大きな石でも、この牛と道具をうまく利用して庭に入れる。「千貫ぐらいの石なら何でもあらへん」と自慢されるだけあって牛も立派であった。道具もそろえておられるのを見て感心しましたが、その時はお年が八十歳くらいであったように思います。ところが翌年でしたか大正天皇さまには十二月二十五日に崩御されましたにつき、その御大葬には御車を引く雄牛が六頭要る。見た目に立派で美しく、性質がおとなしくて、六頭の姿がそろっていなければいけない。角の形、毛並み、体形が揃うものがなかなかいない。全国に求めたその六頭の中に高橋半兵衛老人の愛牛も白羽の矢が立ち、東京へ連れて行かれましたと、後日老人より聞きましたが、その代償として千両と替え牛として雌牛一頭と木盆と書きつけを頂戴したので末代までも家の名誉なり、宝としておりますと言われました。老人もそれを機会に、荒い仕事はプッツリと止め、本当の隠居さんで余生を送られましたが、ある時、突然自動車で来られて、老人の曰く、自慢の牛は陛下の御葬式の御用を務めた後は、一生飼い殺しにしていただけるとのことにうれしく安心しましたけれども、いまひとつ心残りなので、この牛を大日様へ奉納して、永久にお祈りしてやっていただきたいと伏見焼きの特別大きな土牛を毛布に包んで大事に持ってこられました。今なお本堂にある一番大きく立派な土牛がそれなのであります。   

『大日さんの祭り』

 その後は人家も密集して広場もなくなり、牛をつなぐ場所もなくなるに従い、牛に対する愛情も薄らいで寂しくなりました。昔は正月、五、九とすなわち旧の正月の二十八日、五月二十八日、九月二十八日と一年の中の三大祭りにはたくさんのお詣りがあってにぎやかでした。とはいえ現在でも正月を改め、新の三月二十八日の大祭には昔ほどではなくとも大勢お参りがあって賑わいますが、私の子供のころのにぎわいは再び見ることができません。旧暦の正月二十八日は決まったようにみぞれが降り、寒さに震えながらもお参りはたくさんあってとてもにぎやかでした。一本五厘で売る日本ロウソクは次々と献ぜられるために、立てるところがなくなり、次々と消してゆく、献じていくという忙しさでした。子供のころの私は張り切って大声で「ロウソクは五厘で献ぜられます」と叫び、大きい鐘をゴオンと絶え間なく鳴らすし、ロウソク立て役の世話方は「ロウソク一丁、家内安全」とカネをたたくし、一方では牛馬安全のお守りはこちらと呼ぶ。
 お守りはご本尊大日如来のお姿と牛または馬のお札、及び木札守りの三つ一組二銭で授けていました。世話人はみな老人であったので、垢切れと膏薬だらけの手はガサガサで、冷たさにかじかみ、薄い紙札を一枚づつ渡すのは並大抵ではありませんでした。  
 授かるお客さんも百姓なので、土ショウガのように垢切れだらけのガサガサの手で受け取ったものです。水晶のような水鼻が赤い鼻の先にぶら下がるのを見て、ジーヤン、鼻が落ちるでなどと世話をやいて怒られたが、お祭りの日はわが世の春と楽しくうれしかった。大日さんのお祭りとなると妙に寒さが振り返し、正月祭りの最後を思わせていました。
 当日はまだ暗いうちに起きてランプの下で、今日の支度をしていると、一番先に門の入り口より大きく元気な声で「おめでとうございます」と威勢よく入ってこられるのは兵庫の本町通りの南条庄兵衛の大旦那でした。それを皮切りにお祭りの幕は開かれるのを慣例としておりました。お年玉として五銭いただくのがとてもうれしかったものでした。
 三界は苦の世界とか、人の世も喰うの世界で何というても十二時より一時ごろまでが最高潮で、上を下へのてんやわんやで大変ですが、やがて始まる年に一度の行事は国土安穏と五穀豊穣および牛馬の安全を大日如来にお願い申す祈祷、大般若経の転読が始まると、十四、五人の和尚さまと参詣者で狭い堂内は人であふれ、ロウソクを売る私らの方は上がったりで、悪魔を払う大般若の声とともに鳴りわたる鐘の音もにぎやかに、大日如来の霊を迎え、お慰め申してわれらの願いも聞いていただこうという法要は最高潮となるのでした。参詣者はさらに夕方まで続きました。
 この日は境内は申すに及ばず、下の空き地や広場にはいろいろの露店がたくさんに出て、覗きや、はったり屋が来て儲けていました。喜ぶ人は桜が多く、お百姓はたいてい取られてべそをかくほうが多く、でも欲の世界のことなので、これもお祭りにはつきもののようでした。私は日露戦争や片岡波子の覗きからくりが見たくてたまらないが、ロウソク売りや鐘鳴らしが忙しくて見に行けず、覗き屋は大きな声で「えー、代が替われば先客さまあー。さー、お早いがお得でございます」というてお客を引いている声を聞くとたまらなかったものでした。一回終わると次が始まるまでに、早くメガネに取りついたものは得やと呼ぶ声に、大人や子供は吸いつけられたものだった。「あー、日露談判破裂して品川乗り出す三笠艦。東郷大将の命令で、討てよ、進めの号令で、あー、どうした、どうした」と節面白く調子を取って竹のブチで枝を叩き、いやが上にも人の心を浮き立たせたものでした。
 午後の三時ごろになると各露店に場銭をいただきに行くのも自分の役で、二銭より三銭。五銭もくれる店は珍しかったが、それでもちらほらながら、明泉寺橋の辺りまで行くと、一円二、三十銭もあり、ホクホク顔で、そのころ現在の長田のういろ屋も主人の玉やんが来ていて、麦ういろとて薄赤い三角に切った大きなのが二銭であったが、それを買って食べるのがとてもうれしく楽しかったものです。白いのはおいしいけれど高いので見るだけで我慢したものです。とにかく年に一度の祭りはわが世の春と、とてもとてもうれしかったものです。
 その頃は現在のように日曜でも休まず、公休といえば正月と盆の十六日のやぶ入りくらいだったので、大日さんの祭りといえば待ちに待って楽しかったものです。奥の田舎からお参りになった人は明泉寺及び長田に親類のある人は立ち寄り、お祭り気分でお神酒をいただくのを楽しみとされたものです。
 このように待ちに待たれたお祭りでも、お天気に恵まれても、支払い済ませて十円のお金が残れば豊年の方で、折悪しく雨でも降れば、お女中のふんどしで切れ込みとなり、くたびれもうけのしんどがりとなる。したがって吾輩への配当もなく、故に一心によいお天気ならんことを念じたものでしたが、妙に雪やみぞれが降り、火鉢火鉢とお正月らしい名残を思わせたものです。当日の参詣者の多くはお百姓で男ばかりでした。いわゆる、所の神さん有り難からずで随分と遠方から来られました。現今の様に電車やバスがあるではなし、往復十里以上もある明石在一帯から徒歩でお参りされたものです。私は本年七十歳の現在になっても、いまなお明石在の村々の名を知りません。先方より「和尚さんは相変わらず達者ですな」とお言葉をかけてくださるが、私はその人がいずこの村のなんという人であるやら相逢うてその名を知らずで、あいまいな返事やツンボケンを打ちつつ、さようなら、という具合。そのころに比べ、バスや電車のある今日は反対に昔ほどのにぎわいはありません。
 馬の方で私がいまなお感激して忘れられないことは、毎年、ハルピンの競馬場より参詣され、お守りを受けて帰る人がありましたが、その後、昭和十年五月某日、私がハルピンを訪れ、そのころ北満の守りの神と祭られていた沖 貞助、横川正造両勇士の墓前に詣で、日露戦争の当時を追懐して感涙にむせんでいたところ、墓前に向かって右側に国際競馬場があり、遠くより黄色と黒のだんだら模様のシャツで立派な馬を飛ばせてくる若人があり、私の姿を見てヒラリと馬より飛び降りて「北村です。よく来られました」と丁寧なあいさつを受けたときは、異郷の地で知り人に迎えられる嬉しさは格別でそのときの感激は今も忘れることができません。この方は長田の旧家の人で北村市松氏は伯父になる方であることを初めて知りました。

『牛のおかげ』

 その他、牛や馬にちなむ色々のこともありましたが、よる年波とともに忘れてしまいました。数限りなくいる動物で、われわれ人間にすべてを犠牲にしてくれ、またなくてはならぬ動物といえば牛が第一位であると言っても過言ではないと思います。昔はお米を運ぶのにも正味五斗を確保するためにこぼれ米として三升を加え、五斗三升、二十一貫五百匁の俵を二俵、四十三貫の荷を背に負うて運んだものです。絵などを見ると三俵、背負っているが、いくら牛でも六十何貫という荷を背負うては、とても遠道はいけまい。
 車と違い相手が畜生のことなれば、牛の背に荷を付けるのも降ろすのもとても苦労されたものです。人も多くは女や子供が主であったが、一人の時は横に腰掛けたようです。二人の時は背負い枠に入って両方から顔付き合わせて乗ったものです。
 終戦後、丹波の元伊勢にお参りして天の橋立ての方へ向かう途中で、粗末な四つ車の牛車にきれいに着飾った花嫁が仲人さんと並んでゴロン、ゴロンと田舎道を婿殿の家か結婚式場かに行かれるのを見たが、あたかも野に咲いた彼岸花を見るように美しく豪華であった。恥ずかしげにうつむいておられたが、牛の背に乗るよりは安全で、終戦直後のことなれば自動車など思いもよらなかった。綿帽子で花恥ずかしい顔を隠しながら、牛に乗ってのお嫁入りは、さぞ恥ずかしく晴れがましいことであったろうと思う。
 また牛は神牛として神社では全国の天神様に、仏閣では大日如来を本尊とする私の方の寺には牛の像がたくさん祭られております。四国の善通寺の師団長であった乃木中将がおられた誕生寺に、静子夫人泣き別れの松の傍らに石牛があり、私は記念写真を撮っていただいておりますが、その他、牛の像を奉納されてあるところはたくさんにあります。
 大日如来は牛の生ける中はその健康を守り、死後はその霊魂を慰めてやる、との御心願にすがる農家の人の、牛を思う心の温かさに感応あって、お守り下され、牛もまた力の限り、根限り人の世のために働いてくれた恩に報いるために、老後を飼い殺しにせしものなり。私はその図を古い錦絵で見たことがあります。現在でもインドでは珍しくないことのように聞いております。
 ある時、富士の裾野の療養所へ正憲皇太后より御下賜金があったとき、いろいろ相談のうえ乳牛を一頭買い求め、毎朝しぼりたてのお乳をいただき、皇后さまや牛に感謝して長らく楽しんでいたところ、急にその牛が死んでしまった。長らくわれらがためにお乳を飲ませてくれた牛だから、土葬にして葬ってやろうという人と、埋めるなんてもったいない、食べた方が牛も成仏すると意見まちまちなりしが、土葬にして牛塚を作り霊魂を祀ってやろうという人の方が大勢で、牛の療養所葬が営まれたことを新聞で見て、同病相哀れむ行為と真心の表れなりと心嬉しく思いました。
 以上のごとく、牛は生けるうちは人間のために働き、死後も肉体のすべてを人間の文化生活に提供して、その利用範囲の広く大なることはただただ驚くばかりなり。
 大正十三年の八月、すなわち関東大地震の翌年に、八丈島に行ったとき、森永の練乳会社を見学しました。そこで、「天下を乳育する」という、お偉方の書かれた額を拝見した時は、ちょっとホラを吹いているわい、と思いましたが、それから三十五年後の今日ではホラではなく真実に、天下を乳育しているように思います。赤ちゃんの母乳といい、今や牛乳とパンは国民の食料として米食に代わらんとしつつあり。いかにも牛乳は人を活かし育てるものなるが、また変じてダイナマイトとなる恐るべき破壊力をノーベル氏は発見して、今もなお用途によってはとても重宝なものなり。その他乳製品だけでも上げて数え難し。肉は人の食料となり、皮はいろいろの工芸品の材料となり、血は強壮剤となり臓物はホルモン料理となりホルモン(捨てるもの)はひとつもない。骨は若い女のためにブレスレット、ネックレス、イヤリングなどのアクセサリーとなり、奈良のお土産、鹿の角細工の八割ぐらいまでは牛骨ならんと思います。鹿の角があんなにたくさんあるわけがありません。牛骨工場で山と積まれた材料の骨を見ると、初めて見る者はぞっと寒気がしますが、優れた工芸技術によってできる製品の美しさは現場を見なかったらこれが牛骨とは思われません。やがて、牛骨工場より出る一切のクズ骨は骨粉となり肥料となる。または骨や皮の一部を煮出した煮汁よりゼラチンを取る。これがまた医薬として食料として強壮剤として製菓用として用途の広いことは大したものなり。また子供が遊ぶシャボン玉でもゼラチンの入っている液より出来る玉はふわりふわりと長く空中を飛びまわるために子供の喜ぶことは限りなく、大供までもほほえましい顔で眺めておるのを見うけます。今まではお菓子の中でも練り羊羹は最高位にいたものですが、あの腰の強さ加減をなすものはゼラチンがなくてはできぬもの。寒天ではあの粘り強さはなく、全然ダメである。ゼラチン液を絞りとった後の骨は燃やし、骨灰というて炭を作る。あの美しく清らかなものと思っている白砂糖は糖蜜の時に牛の骨の炭の中をくぐらせることによってできるものなり。製糖会社でこの事実を見てからは、何ごとも見ないのがきれいなりということを知る。これも昨今は活性炭に変わりつつあり。もっとも下等の骨や皮のくずを煮出した液より膠(にかわ)を作る由。恐ろしくいやなにおいがするので、よほど我慢強いものでないと、この仕事はできぬとのことなるが、この汚いものよりできる膠がなくてはできぬものがこれまたたくさんにある。墨も膠がなくては駄目なり。油煙を膠で固めたものがその墨で天照皇太神さまをはじめさまざまな尊い文字を書くことや仏像や仏壇を作るにも膠がなくては仕事になりません。用途の広いこと広いこと。牛糞は燃料となるので北満やインドなどでは大切なものである。昭和十年の五月にチチハルに行ったとき牛糞を燃料に加工する婦人を見て感心しました。これがなくては零下五十度以下に下がる北満の寒さは越せぬ由。
 また去る昭和二十年三月某日の大空襲では垂水の奥の盲唖学校の下の松野牧場も直撃を受けて牛舎が燃えかけたが、消す水がない。ああ、牛と共に駄目かと手の施しようもなく、ただうろうろするときに、機転の利いた牧夫がとっさに牛の小便を汲んでかけ始めたのに一同も気がつき、協力して遂に消し止めたために、たくさんの牛も牛舎も本宅も助かりましたと主人より聞いて感心しました。あの場合は汚い、清いは言うておられず、消すということが第一なれば、あの時の牛の小便は南禅寺の山門楼上の石川五衛門ではないが、価い何万両の価値なり。
 さて話もいよいよ尻の仕舞いのどんじりに下がりましたから、なお書きたいこともありますが筆も汚くなりましたので、稿を改めることにしてこの項を終わります。  
                                         『水の苦労のこと』

 この時分の村人の生活は現在よりみれば寂しいとも気の毒とも言いようがありませんでした。その時分は世間一般が生活の程度が低かったために、たいして辛いとも悲しいとも思いませんでしたが、水の不自由なのが一番辛いと思いました。大昔はどのようにして暮らしていたものやら知る由もありませんが、現在の丸山駅の下の大渓谷にイデというて大きな石で石垣を積んで大堰提を作り河上より左山裾に溝を作りその溝に水を引き入れて流し、掛け樋で右側の山裾をうねうねと曲がりくねり、丸山の裾より大谷とて現在の牧場の上をぐるぐる巡って北の畑すなわち寺の裏に来て、初めて寺の井戸すなわち水槽に引き入れ、水上水上と言われておりましたが、寺は水上なれば他の井戸まで水が届かなくとも寺の井戸には水が入ると、うらやましがられたものなり。この溝を新溝、新溝というておりましたが、出来たのは何年ごろのことなるや。当時の許可を願う書類や願書などは藤田愛之助氏の宅に額にして揚げておられるが、今では知る人もありません。
 当時の村人の苦労は大変なことで、遙か遠くの長い水路を流れて自分の家の貯水井戸に水が入ったときの嬉しさはどのようであったやら。この水路を設計された方の苦心は格別であったことと思われる。村人は毎月交代で水見の役が当たると、その苦労はひと通りではありませんでした。子供の私は水源より水路について水を見守りながら川の上を樋で渡すところが一番の難所でありました。樋の真ん中がしわり、砂がたまり水が滝のようにあだけ落ちるために、細くて長い危ない樋渡しの橋の中央までヒヤヒヤしながら身を伸ばして、砂を手で掻き落とし、水の通りをよくせねばならんが、その危ないこと、恐ろしさに身が震えよりました。連れはなし、ただ一人なので落ちたらそれきり、助からないだろうと、今思うてもぞっとします。現在の道路より川の向こう岸に怪しげな石垣が見えますが、これが昔明泉寺村への水路の遺跡の一部であることを知る人はなく、あんなところに何のための石垣なんだろうと思うだけである。現在の道路は昭和の初め頃に出来たもので、それまでは寺山裏といって恐ろしくまた寂しく怖いところでありました。ある年の大水害にこの大堰堤が飛んでしまって元の通りに直す工事の大変であったこと。寺でも苦役に出ねばならず、和尚さんと私と二人で、一人前に認めていただきました。病人および老人と子供のほかは身分の高低なく工事に従い、差し支えあって出られぬ家は代わりの人を頼むか、一人分の人夫賃を出したものです。なにしろ刈藻川の上流で、毎年一度や二度は豪雨ともなれば、もの凄く荒れました。現在のごとくセメントがあれば工事も心配なく出来るが、そのころはセメントなど夢にもなかった。ただ、一個何百貫もある大きな石の力でもたせることしかできなかった。川下へ押し流されている石を、また元へ運び上げる金剛力は、機械に頼る現在の人にはとても想像できない荒仕事のように思います。このようにして何百年となくお世話になった樋でも明泉寺町へ市営の水道が引かれると同時に見捨てられ忘れられて、顧みるものもなくなり、またどのような大水害にも大丈夫と思われたイデも、いつしか飛ばされて「水は渓声長広舌」古川に水絶えずで昔と変わらず、本来の流れに帰っているが、川上に人家がたくさん出来たために不潔なものが流れ、いわゆる三尺流れなば浄水となるという言葉は通用せず、水晶のように清く、「水を掬すれば月は掌にあり」と言われ、思われた昔がしのばれてなりません。その後再び近代的なイデが出来、少し上には長柄橋まで掛かっていたが今では橋脚を見るだけになりました。以上のごとく苦心して呼び迎える水も夏枯れともなれば各々の家の井戸に水を満たすことは出来ず、一番水上の寺の井戸までやっとのことでひき入れた水を、村人は朝に晩に汲みに来られるので、とてもにぎやかでした。雨乞いのお祭りをしても効き目もなく、いよいよ水枯れとなれば、みな川まで汲みに行き、初めは近いところに穴を掘り、静かに汲みますが、あとからあとから続くのと、汲むたびに濁るので、次から次へと上へ登り、しまいには馬ヶ瀧までいかねばなりませんでした。そのころは現在の瀧見橋(昭和三十六年三月竣工とあるが、遅れて六月の末に完成す)などはむろんなく、またその後できた現在見るような堰堤もなく、滝まで行くには両方の山は高く、昼なお薄暗い川底を上り詰めた突き当たりに落差三間以上の姿の良い滝がありました。けれども現在では橋の真下に大きな堰堤が出来たために砂の中に埋没してしまって、ほんのちょっぴり頭が出ていたのが、最近ではそれさえ見られない河原となっている。今後の人は橋の真下に見える大堰提より落ちる水を瀧と思うならん。この奥に昔は立派な滝があったと知る人もありません。
       
 ある年の夏は納涼瀧として茶店がかかり、夜も提灯の灯にあこがれて、涼みに長田や兵庫の方から来る浴衣姿のにぎわいを見たことも、今では夢か幻のように思います。
 そのころ、明泉寺の村に、すなわち今日の新興宗教のようなものが、ある女の人により唱えられ、その神なる本体はこの馬ヶ瀧を中心に住む年を経た大蛇で、その名を馬天龍と称し、夜となく昼となく、押すな押すなのにぎわいで、滝の付近や谷間にはお籠もりする人もたくさんありましたが、村では特に変わったこともなく、あまりの繁盛ぶりにいろんなことを言う人がありましたが、それがためにその家が豊かになられたことは確かでした。そのうちに春も過ぎ夏が来ました。水に悩まされる明泉寺村では例年の通り飲料水を汲まねばなりません。初めは朝の水のきれいな時にと、大して小言も言わず汲んでいましたが、何時行っても男や女が滝に打たれて一生懸命に何やら唱え、その声は渓谷にこだましてものすごく、水汲むものは、行者の真剣な姿や勢いに押され、不潔なとは思へども、三尺流れなば清水と、下の方で水を汲んで、這々の体で帰っていましたが、はや日照りはつづく雨は降らず、瀧に落ちる水も枯れて、細るに反して朝晩の水汲みはますます忙しくにぎわってきたので、村人は一致団結して、「信心とはいえ、滝に打たれることあいならん。飲料水だから」と強く出たが、信者は応じないので、いよいよ腹を立ててある日、村人総出で瀧に押し掛けていき、ちょろちょろ落ちる滝の水の落ち口に土嚢を積んで水を止める工事にかかり、半ばで正午になったので、一同昼食に帰っていたら、にわかにものすごい大雨となり、間もなく天気となったが、ドロドロの大水になって、何もかも押し流され、工事は中止となり、百年河清を待たなくとも間もなく水は豊富になったが、拝み屋の方ではそれ見たか、神様に逆らった罰は、てきめんなりとますます太鼓を叩くし、村人は、天道人を殺さず、われらが苦しい事情に感応あって、雨を降らしたもうたものなりと言い張り、お互いに胸のしこりは取れず、ついに警察より飲料水汲み取り人以外の者は立ち入り相ならんと立て札がたちました。その後、瀧は元の静けさに戻りましたがそれ以来もし大蛇が出てきたらドナイショウと、朝早く晩遅く滝まで行くのが恐ろしく、川下の方で水を汲んで逃げるようにして帰りよりました。幸いにしてだれも大蛇の姿を見たものはなく、大蛇がいるなんて真実じゃろか。いや、嘘じゃろと日が経つに従い、忘れられましたが、一時は以上のようなこともありました。
 とにかく、毎年夏になると水汲みがつらい仕事でした。朝早く静かなうちに行くのは怖いし、寝起き早々の体はだるくてしんどかった。でも川に行き、冷やっこいきれいな流れ水で顔を洗って、その頃はバケツを持つ者は小僧の私だけでした。それも一つしかなく、お米や麦を洗うて、水をちゃぶつかせ、こぼさないように木の葉や板切れを浮かべ、または布巾を張りましたがいずれも一得一失で、布巾であれば草履のはねや、砂ぼこりが入らずきれいではあるが、急いで悪い坂道をエッチラオッチラと帰るうちに、布巾は水を吸い上げて、ボトボトと垂れて落ちる滴が気になり、急げば胸は苦しい。
 午後からの水汲みは早ければ道が焼けていて足の裏が熱く、草履を履けば砂ぼこりが上がって水に入り込むし、裸足では足の裏が小石のために痛い。力の強い若人は荷ない、私ら子供は手に下げて、貧富の別なく水は汲まねばなりませんでした。水道が導かれた今日となればみんな夢のようです。
 
『米搗きのこと』

 次に私の苦の種はお米を踏むことでした。昨今は白米というて、お米はもとより白いもののように思っている人もあります。けれども私の子供のころは市内は別として明泉寺村では自分自分に玄米(くろまい)を搗いて白米にせねばなりませんでした。昭和二十年前後、しばらくの間は一升ビンやビール瓶に七分目ほど入れて、細い竹や棒で一生懸命、汗を流して搗いたころを思えば乞食生活とお大名ほどの開きがありますが、戦争のおかげで尊い体験をしました。今では皆お忘れになったことと思います。毎日いただくお米を自分自分に搗かねばならないので、その苦痛は大変なことであったことを体験せられたと思います。でもあの時の米は配給分であって、半搗き亦は七分搗きでありましたのを、なお白くしたいために搗いたもので、いわばぜいたくなりと言われても仕方ありません。今一つの理由は、半搗き米は炊いても量が増えない故に、量を増やす為に、ビンで搗くのは公然の秘密でありました。そのくせ一日の割り当てが一合少々で、ひだるい腹を抱えて暮らす日も多かった時代でありました。
 思えば嘘のような本当のことであります。年と共に老人は忘れ、若人は信じなくなるでしょう。とにかく、玄米は良薬は口に苦けれども、病に利ありのたとえのごとく、玄米は不味くとも体のために良いと承知はしていても、食べづらいものなので、お寺では私が搗かねばなりませんでした。そのころ、臼は西、白泉、宮本、谷中などにありまして、順番に搗かせていただきました。今晩炊くお米がないなどというときは、七升くらい入れて大急行で踏むとカンカンと早く白米にはなる代わり、強く耳に響き、粉米が多く減りも高いので、なるべくは一斗四、五升入れて搗くと万事好都合でした。けれどもこれをまた搗く身になれば労苦が大変で、純白米にするにはどうしても一万回以上も踏まねばなりません。
 唐臼の据えてあるところはたいがい冷え冷えする場所であるが、寒中でも二、三千回踏み続けると、全身が温かくなり、やがて汗ばんで来る。半纏または甚平を脱ぎ、なおもどんどんと踏み続けると、暑くてたまらなくなり、着物を脱ぎ、しまいには襦袢一枚になりました。
 からだが金時のようになるとぼつぼつと疲れを感じ、喉は渇く、足は重くなる。杵の先に付けてある石を取り去り、ああしんどと休んで、動悸を鎮めていると、流れた汗は冷え、くしゃみが出て、水洟が垂れる。また元気を出して二、三百踏むと、そろそろ足はむくんだようにだるくなり、重くなるに従い、踏み切ったはずのハネギが早く跳ね上がって、足の裏を突き上げた時の痛いこと痛いこと。肉離れがするような感じでありました。またドカ足を踏むといって、空を踏むこともあった。一番危ないときです。多くは左足に踏み替えた時に起こる。この間に何度となく臼の中の米を見に行き、少し手のひらに載せて糠を吹き吹き、両方の手のひらでこすってみるが、なかなかに白くならず、始めの頃は摩擦力で熱を持ち温かいが、たびたび休むと冷めてきて、ますます搗けなくなる。これをお米がうるむという。白米になり損なうことです。
 仕方がないので、内緒で糠を水で溶いて入れたり、大根を細かく切って入れたり、桑の葉を入れたりして少しでも早く白くしようと苦心しますが、「百里の道は九十里をもって半ばとす」の譬えの通りで、いま一息となってからがなかなかしぶとくて精も根も尽き、もうええやろと思い、藁ふごに掻い出し、持ち帰り、糠をふるい、米屋の白米と比べると、同じ年頃の娘でも、町の糸はんと田舎娘を比べたようで、比較にならず、その上に大根や練り糠が過ぎたために、粉米が沢山出来たと、飴玉の替わりに大目玉を頂いて、あほらしいやら、悲しいやら。
 でも、毎月二度や三度は搗かねばならないので、その日が来ると、朝早く臼のあいている家に頼みに行き、搗かせてもらいます。米搗きは本当につらい仕事でありました。
 昔、我が禅宗の高徳、六祖大師は来る日も来る日も、大衆のためにお米を搗くのが毎日の仕事でありました。余念なく一意専心不断の努力を続けておられましたが、大師の一踏みごとにお米の皮が剥けていき、刻一刻と精米されていきます。一方、お米を搗く方は無意識でいわゆる動中の工夫は静中の工夫に勝ること幾千万倍で、スートン、スートンと一搗きごとに、心の散乱を抑え、精神の統一を図り、ひたすら己が心の曇りを払い、中秋の名月を見んものと、粉骨砕身の労を嫌わず、努力された功は空しくありませんでした。
 数千年の後の世までも、米搗き爺さん、六祖大師として、尊まれ給うが、私もそのころにそこに気がついていたら、少しは禅坊主らしくなったかもしれませんが、ただしんどい、いややとばかり思いながらの米搗きであったために、七十一才の今日に至っても、生きていても害あって益ない者で終わらんとしている。一石二鳥の功績を残された大師を思えば、わが身の苦労は語るも恥ずかしい次第です。

『お米を買いに』

 当時は、毎朝、貧乏長屋へ引き売りといって、下等な米を車で一合から売りに回ってきたものである。私の子供のころ、町のお米屋では寿司米、一等米、二等米と店によっては五等米の他に等外米まであった。また半切りといって、三斗位も入るたらいのような器に、いずれも山形に高く盛り上げ、道行く人によく見えるように、コメの等級と値段を大きな札に太く書いて貼ってあった。
 値段は等外米のことを三徳米と言って、すなわち値が安く、炊き増えがして、まずいので多く食べないという三徳である。下宿屋は主に等外米を用いた。安くて、炊くと増えるので。
 例えば、一等米は十八銭六厘、等外米は十一銭三厘など。けれども毎日のように相場が上り下りするために、そのたびごとに三厘、五厘と別の紙に書いて張り付けたものです。また米屋により黒く塗った三、四尺もある板に白墨で筆太に値段を書いて等級に応じ、半切りの向こうに立て、白米を山のようにきれいに盛って、人目を引くようにしてあった。
 その時分は各人が身分を承知していて、良い米はエエシの食べる米で、われわれは身分に応じたお米を食べたものです。貧乏な人は一升ずつ買ったものです。恥ずかしそうに小声で「あのお米」とふろしきを広げると、元気のよい番頭は手際よく計り、軽くトボをかけてふろしきに開けてくれる。これが一升かと思うほどの量であるが、寂しくきまりが悪いので、なるべく人に見られないようにこそこそと我が家に帰って行くといった有り様でした。米屋によっては緩くトボを引いて引き切らず、升の隅にほんの少し残してくれるとうれしかったものです。昨今はエエシも貧乏人も食べる米だけは平等ですが良いことか悪いことか判断できません。あるお大臣が変なことを言うたために全国に広がり大変でした。昔の例を引いてめったなことは言われない。各自の自覚に待たねばならん。老婆親切で教えたことが仇となるから。
 店で売る白米は明泉寺谷、天王谷、再度谷、住吉谷の各水車で搗いた。水が豊富で水力の強く、場所も広い水車では、中央に車があって両脇に唐臼のあるのをハネ返しというが、普通は「なげ」と「どー搗き」であった。
 各水車には浜回りというて、気の利いた注文取りの番頭がいた。足に食いつくようなパッチに紺足袋に麻裏草履をつっかけて昆布のような布地で縦縞の厚司というものを着てバリッとした身なりで、美濃半紙四つ折りくらいの帳面に黒いなめし革に通いと大きく赤字の入った革のカバーをかけた帳面を右の腰に、左には矢立または粋な煙草入れを差して得意先を回り、注文を取る若人を浜回りというのである。
 翌日になると注文に応じて、馬力屋が運んでくる。そのころは皆五斗俵で二十貫はあるゆえに、若くて腕と腰が強くて調子の良い馬力屋でないと勤まる仕事ではありませんでした。昔は一本のかじ棒で二輪車を牛または馬で引き、その後いつしか馬力とて四っ車となり、馬力屋は腰をかけても構わぬ規則となり、時には楽々と居眠りしているものさえ見よりました。
 さて頭の堅い米屋の旦那になると水車の米は入れずに、庭の右または左壁際に一臼または二臼据えて若人に足踏みさせたものです。このように米つき専門の若人になると一斗七、八升も入れて、軽い身なりに豆搾りの手ぬぐいで鉢巻き、または米屋かむりをして、威勢の良い姿で草履ばきで、急がず休まず、踏み続ける。
 渋皮がむけるようになって、ドーンドーンと音とともに糠煙が上がるころともなれば、中ふるいとて糠をふるい、再び緩やかに搗き続ける。玄人が踏む唐臼の頭には、石も付けず、いたって軽くしてあり、全体の七、三位の所に受け石があり、これを猫又といって杵が乗せてあり、踏む足の下はものすごく深く掘り下げてあるために、調子付いてくると、杵は垂直に自分の鼻の先まで来るのを右の手で軽く押し返すとスットンと心地よい響きとともに糠煙が立ちはじめると米は早や白に近いことが知れる。これを「投げ」という。
 心地よい地ひびきは、いかにも景気の良い米屋風景で、店の間には結界を置いて大旦那または一番番頭が行儀良く座って、後ろには帳箪笥が置かれ、長押には大福帳がずらりとかかっている。その上には神棚があって朝と晩には必ず御神燈をいくつも一列に上げるのだが、まず火打ち石で火口に移し、付け木に取り、行灯の灯心に親火として付けておいて、神棚へ次々と火を献じたものです。このような米屋風景は今では見られなくなりました。昨今の米屋は配給所とて、米も搗くのでなく、オートメーション式に機械力の摩擦によって玄米を白米にする誠に殺風景なものなり。
 足踏み、水車、精米所とあったなかで、糠は足踏みよりできるものがいちばん上等と言われておりました。それは婦人の洗い粉と言えば糠に限られておりました。ええしの奥さんになると、一度風呂に行くにも糠袋を二つも三つも持っていかれ、また風呂屋にも一つ五厘で売っておりました。また漬物用としても足踏み糠に限りました。というのは水車でもその後の精米所でも最後の搗き上げ前になると、あげ粉というて、磨き粉を入れてお米を真っ白にするので、顔を洗えば荒れるし、漬物に入れると味が悪く、ために嫌がられたものなり。
 この石の粉は明泉寺では平尾、長田では横井の両家で製粉し、材料の石は明泉寺より奥の長坂峠の西一帯の山は全体が石粉になる石山でした。現在でもいくらでもあるが、いつしかこの粉を入れると、人間をはじめ、糠を食べる牛や馬、漬物用、糠油などすべてに悪いと使用禁止になったものらしく、今のおコメは石粉の入らない生地なりの白さである。「石より山」の現場で粉にして、神戸全市の家庭へ磨き粉として売り歩くために、天気でさえあれば、毎日毎日、番町から上がっていき、夕方になると磨き粉を肩に担って、列をなして下ったものだったが、これも釜がアルミに変わり、磨く必要がなくなり、今では見られなくなった。
 米搗きにたいして麦の方はとても面倒でした。少し水を入れて搗き、しばらくするとお餅をつく時のように臼のわきに座っていて、しゃもじで均等につけるように掻き落とし、平にしていかねばカンカンと同じとこばかりがつけるために麦は割れてしまい、またよほど気をつけて手際よくしないと杵で手首や頭を打つし、エライけがをするものもあった。半分くらい搗けたら、麦は膨れてそれ以上つけばつぶれる故に、いったん掻き出して持ち帰り、日に乾かして硬くしてから篩いにかけて糠を飛ばしたりして、翌日再び搗かねばなりませんでした。故は麦搗きは天気の日でないとダメでした。
 用途の広い米糠に比しても麦糠はニワトリや牛も喜ばず、掃き溜めに捨てて、堆肥にするくらいでした。
 私の寺でも常は半麦飯でした。すなわち米五合に麦五合の割合で炊くご飯のことですが、丸麦を五合ヨバスと大変なかさになります。それを麦あげ(イカキザルのこと)に上げて、麦のねばりを取り、おけに溜まった麦汁は襦袢や腰巻きののりに使用したり、牛のいる家では飼い葉をかいてやったりしたものなり。
 ヨバシ麦には、なお水を掛けてネバリを去り、さましてからお米を入れてじゅうぶんに混ぜて、広口の鍋で初めそろそろ、中ぱっぱ、赤子が泣いても蓋とるな、というてもネバリが吹きこぼれてくると、蓋も取らねばならず、その加減がなかなか難しかった。
現代の炊飯器を使うご婦人には想像もつかないでしょう。においをかいで火を引き、三十分くらいしておひつに移すのですが、学校へ行く子供のある家では子供かわいさのために麦飯の片隅に置きめしといって白いところをこしらえてその分を弁当に詰めて、学校へ持たせてやる母の心の温かさ、恩に着もせず、着せもせぬありがたさ、半麦飯のうちより置き飯をとれば麦ばかりかと思うように黒い御飯でした。家によっては麦七米三くらいの家もありました。ご飯をおひつにとればなべ底にはこげができる。不経済のようなれど焦げるまで火を入れなくてはご飯がびしゃびしゃでふんわりしませんし、おいしくありません。でも黒焦げになっては苦くてまずいし、焦げなくては水っぽく、びしゃびしゃで、夏ならばすぐに腐敗するし、日々に炊くメシさえも固し柔らかし、思うようにはならぬ世の中で、ちょうど狐色にこげができるようにご飯が炊けるようになれば一人前というものであった。それには嗅覚がよくないと飯炊きはつとまりません。ご飯独特のにおいによって火を止めて、大きな火は消しツボに、灰火はかき集めて十能で固く押さえておき、火床の余熱で十分にうますことによってご飯の味はよくなり、日持ちがよくなるものなり。このように気をつけても夏の麦飯は足が早く、翌朝になるとはや、にちゃにちゃになりとても食べにくいものである。故に常に大麦のはったい粉を用意しておいて、ご飯の上に少しかけて塩も入れて、熱湯をかけると香ばしいにおいに誤魔化されていただけたものなり。ご飯はいくら腐っていても当たらないというて、それを食べ終わらぬ内は良いご飯を食べさせてもらえず。でもドロドロになると糊にしたものなるが襦袢や腰巻きにつけると臭くて、子供らでもいややなと思ったものでした。  その後にフライパンというものを見つけて買い求め、それからは腐敗したご飯にはうどん粉とザラメ砂糖を少し入れて耳たぶぐらいの固さに練り、フライパンで両面狐色になるまで、トロ火で中まで十分に焼いていただくととてもおいしく、黙っていたら悪くなりかけたご飯とは気がつかぬくらいでした。それまでのホウラクで焼いていた時分から思えば、なんとフライパンは便利なものやなあとうれしく思いました。焼くのを急ぎ両面が焼けていても中が生焼けであったら、これはまた食べられたものではありませんでした。当時は田舎の人が街でフライパンを食べるパンと思い込み、買いに行って、失敗したごとく、私も、ある年、大阪の阪急でホームスパンの宣伝大売り出しに、やはりパンかと思い会場をウロチョロしてもパンは見つからず、やっと服地なることを知り、人知れず苦笑したことあり。

『ご飯のおこげ』

 ご飯をお櫃に移した後の焦げ付きは今一度軽く一くべ火を焚き、ピリピリと音がすれば火を止めてコゲおこしというものでガリガリと起こせば、訳もなくきれいにおきる。このコゲおこしを今の人が見れば、何に用いしものなるや、と判断がつきますまい。それがないときは包丁の先で起こしたものなり。コゲは別に食べたりお粥にして食べたものなり。焦げ付きの少ない時は水を入れてへっついの下の火を開けておくと、なべの中のコゲは膨れ、温かくなっているのをおやつがわりにいただくのが、寒中などはおなかが暖まって、とてもうれしかったものなり。これをままの湯と称しておりました。といえば大変下品な言葉のように聞こえますがそうではなかったようです。その証拠に仙台萩の芝居を見ますとまま炊き御殿の場というのがあります。お家の内には悪人はびこり、ためにご飯も気楽にいただくことならず、故に、乳母政岡が自らご飯を炊いて若さまに差し上げるのを、待ちかねている奥州仙台藩、六十四万石の若さまが、「乳母、はようままが食べたい。まだか、まだか・・・」とせがまれるのを見ると、ままという言葉は殿上人にも用いられた言葉のようなり。また、ままの湯というのもいやらしい呼び名でなく即ち京都の各本山などで本膳に着くと最後に出てくるものは湯とうと称し、おこげで作ったお湯なり。普通の土瓶、茶瓶の方が略式で、いわば下等であるやもしれません。
 また懐石とて、お茶事に招かれても最後に湯とうが出ますが、やはりおコゲで作ったお湯なり。すなわちお茶事ではオカマの洗い落としまでいただいてしまうという意味ならんと思います。故に湯とうには杓子がついていて、たとえ五粒、六粒でも、焦げたまま粒を杓子ですくって、お客のままの椀に入れておいてから、静かに湯とうの口よりお湯を注ぐものなり。これも現在では珍しくご馳走のひとつなれば、懐石では是非なくてはならぬものなるが、昨今のように電気の、またはガスの炊飯器の時代ともなればご飯のコゲを作るにも大変な苦労なりと思う。すなわちご飯で薄く、平らなものを作り針金で気長に両面がキツネ色になるまで焦がしたものを湯とうに入れて、お湯を注いで作られるのではないかと思う。この湯とうは香ばしい良い香りのするものなり。
 明治の中ごろには、現在の祥福寺のように兵庫の八王子にはたくさんの雲水が禅の修行をしておられた。その時分には兵庫の北風とて、名高い廻船問屋がまだ盛んなころで、毎日何斗というご飯を炊くために、コゲがたくさんできるので八王子ではそれをいただいてきて毎朝おかゆにしてたくさんの雲水僧がいただいて修行したその中の私も一人なり、いわば北風のコゲのおかげでこんなに丈夫で長生きもしており、今の人は栄養失調とかいろいろ言うが、そんなものではないと、ある年の夏期講座に時の永平寺管長日置黙仙老大師がお話しになったことを記憶しております。ちょうどその時舞子の御別荘で有栖川の宮垂仁親王様がお隠れになったので、先刻、お悔やみに行き、腰折れをお供えしてきたと申された一句に曰く、「生まれなば死ぬるというは有栖川、いくら死んでも垂仁はなし」とこのようなことの気軽に述べられるほどの、徳の高い御身分の方がいわば北風のおコゲの化身なりとも言えることができると思いました。 

『米屋のこと』

 さてそのころは明泉寺も長田も百姓ばかりなればお米屋というものなく、故に麦を求めるにも兵庫の門口町で福厳寺という即ち、大日寺にとっては親寺になるお寺の前に米屋があり、そこまで麦を買いに行きよりました。乗り物などなき時代なれば往復とも徒歩で、一度に二升ずつ袋に入れてふろしきに包み、肩に担うて、子供のことなればぶらぶらと半日仕事でした。三升も四升も買えばしばらく助かるのですが、重くもありお金の都合も悪く、わずか一升、七銭前後の麦を求めるのに兵庫まで行かねばなりませんでした。その後に現在の兵庫駅の前にできた山陽電車道に向かったところに、麦専門の福本という大きな精麦所ができました。丸麦、引き割、子桜、桜とそれはそれは大仕掛けな店で、卸が主で小売りはサービスでした。一石くらいも入るはん切りに入れてある為に、門口町に比すれば近くなって、足も助かるのですが、福本はあまりにも店が大きく立派なるに二升や三升買うのが恥ずかしくてきまりの悪い思いをしよりました。主人はいつも店の間で大きな火鉢を前に紫煙をくゆらして、いかにも大旦那らしい風格のお方であったことを今も見るようです。その後に山陽電車ができましたがめったに乗ったことがありませんでした。長田から兵庫まで向こうの方が見えているのに、二銭は高い、もったいないと思って歩いたものです。
 その後またまた現在の交差点を下がった左側に柏木という大きな米麦精白所ができて、また近くなったとうれしくなりました。そのころには大日寺のお手元も少しは都合よくなり、一斗位注文すると届けてくれるために、今までの苦労は頓に解消して、今日ではお寺のすぐ下に平尾配給所ができて、先方から何日何時でも持参していただけるようになりました。その代わり、旧六銭五厘や七銭くらいであった麦が丸麦でなく桜で六十円前後となり、何もかも思えば夢のようです。
  地主は田畑を一反四百円で強制的に買い取られたときで、畑一反三百坪がお米二升とは泣くにも泣けぬ時代がありました。
 お米屋かとて同じで、十七、八銭位であったものが、終戦後は二百円前後まで登りしが、昭和三十三年十月現在では、百三十円を上下しているようなり。玄米一石十五、六円なりしが、昨今は一万何百円也で、今年はまた有史以来二度目の大豊年である由、百姓はますますホクホクで、町の人とて五穀豊穣は聞くだけでも心嬉しきものなり。(昭和三十三年十月九日夜半)
 その頃は麦めし、大根めし、菜めし、芋めし、かぼちゃめし、など不味いものを食べて、お米は少しでも食い伸ばしたものでした。寺でも手元の不如意を他人に見せまい、思わせまいとやせ我慢を張って、内庭には何日も五斗俵が二俵または三俵と積んでありました。それが一俵減り二俵減り、皆なくなると庭が広々とするのが、なんとも言えず心さびしく思ったものでした。でも最後の一俵は随分と長く持ちこたえるために穀象虫がわいてものすごく、時には向こう側にネズミが大穴を開けてお米を食い荒らし、腹が立つやら悲しいやら、いつの時代でもネズミには困ったものなり。福の神大黒さんの使わしめに干支頭などと崇め尊んではいられない。その時分になると白米ならば穀象虫のために喰われ、洗えば虫食いになった分は浮いて流れ、カシンバ粉になり、ご飯に炊けば酢い味があってとても不味く、玄米ならば搗いても搗いてもうるんで精米にはならず、虫の食う分が粉になるために、一斗搗けば六升くらいに搗き減らしますが、それでもお米を買うことは手元が苦しいから、少しでもと色々のものをかさ上げに入れて、お米はできるだけ食い伸ばしているうちに穀象虫に喰われ、今の人が思えば、あほらしいバカなことのようですが、昔はどこの家もみな同じでありました。

『現在でもなお・・・』

  以上は、誠に暗い寂しい不快な過ぎし昔の話のように思われましょうが、なかなかどうして、少し眼を反らせばとても酷い気の毒な食生活をしておられる所がまだまだ、いくらでもあります。私はある年の晩秋、四国の石槌山の大渓谷、面河渓(松山より登ると、四国のチベットといわれている熊町より左へ山また山の谷間に入って行くところなり。碧悟桐氏によって、天下に紹介された渓谷美に優れた紅葉境なり)の紅葉を見に行き、入り口の宿に泊まりました。この谷は山が高く、平地が少ないために、水田も不足で急な傾斜面に畑を作り、トウモロコシが主産物で芋など作るも、地味が痩せているために、芋も哀れな物ばかりで、上等の分は売ってお金にして、他の生活物資を求めねばならぬ故に、我が家で食べる分は売り物にならぬ分なり。
 家の軒下に竿に通して、干してある黒い物を見て、何であろうと近づき見るに、芋としては食べられない、真実の屑芋を一度蒸して、糸に通して乾燥しているとのこと。十分に乾いたら、臼ではたいて芋粉にして、米の粉、または麦粉と共に団子にすれば、すじもへたも皮も皆、食べられる由。常食は山の傾斜面に作るトウモロコシのご飯なりと。
 狭い道を隔てて、向かいの家はいわゆる貧乏人の子沢山でランプも無く、いろりで柴を燃やし、大きな吊り鍋が掛かり、盛んに燃ゆる火は鍋底につかえて火花を散らして美しく、車座になって、何やら知る由もないが、吊り鍋の中よりお玉杓子ですくいだす者、食べる者の顔を照らして、真実に金時の火事見舞いそのままで、真っ赤な頬の健康そのもののような夕食の光景でした。近頃の商人は鍋底景気で青息吐息の時代なるに、面河の谷の人々は生活のレベルこそ低いが、世間に煩わされず、平和で静かな日を今も送り迎えして居られることと思う。
 給仕の女中さんにナンバめしなる物を明朝、食べさせてくれと頼んでおいて、夢路についた。この家は旅館なればランプを珍しく見たが、他の家には夜は暗いものとしているらしく、灯というものを見ませんでした。夜半、ガラス障子を通して、月夜の渓谷を見るに、昼夜の別なく流れる水声は静かに耳に伝わり、真夜中の深山を照らす静けさは、無色透明の水中に有るように思われた。やがて聞こえる鶏鳴は、太古の如き静けさを破って、時計に替わって時を告げているのも、下界に住む我が身には近頃珍しく、いにしえに帰ったように思われました。
 やがて運ばれた朝食の膳には銀飯でナンバめしではありませんでしたので、昨夜、頼んで置いたナンバのご飯はと訊ねたるに、そこに付いてありますとのこと。よく見ると、朝から玉子の菜種炊きとのみ思うているそのものが、ナンバめしであった。すなわち、ナンバがはじけて中の身が白く外の皮が黄色なるがために、ちょうど玉子の菜種炊きとばかり思いました。食べてみると、ちょっと甘みもあってまんざらでもありませんので、女中さんにこれなら美味しいではないか、といえば、お客さんは初めてで珍しいさかいやけど、毎日食べるとモサグサして慣れたものでないととても食べられませんとのこと。
 そののち、終戦直後、アメリカより頂いたトウモロコシの粉末は、玉子の黄身を粉にしたようで、見た目に綺麗で焼いて食べると、ちょっと美味しいと思ったが、主食として毎日頂くと、とても食べづらいものでしたから、無理もないと思いました。
 このあたりの者が、一度大阪方面に出て、白いお米のご飯の味を覚えたら、帰ってきません、とのことでした。
 やがて、さようならと宿を出て、目的の面河渓をさして登りゆく途中で、稲穂の落ちているのを見て、このあたりとしては珍しいことと思い、拾い見て驚いた。見た目には立派な稲穂の一房なるに、中身のお米が一つもありませんでした。
 思うに、白いお米といえば、お正月かお盆くらいと言われているこのあたりの子供はお菓子というても、売る店もなく、お金も自由ならず、故に稲穂の一房も手に入らば、お米というだけで、他の何物よりも嬉しく、一粒一粒、歯と唇のはたらきでもみ殻を落とさず、中のお米だけを噛み出して、食べて楽しむことに慣れているようであるが、落ち穂拾いもままなるまいと思い、淋しく感じました。
 昭和十年、満州を旅行中、列車内で可愛い満人の女の子がコーリャンの穂を両手に持ち、紅い唇と白い歯を動かして、一粒一粒とても上手に噛み出して食べているのを見て、ほほえましく思いました。国が違い、物が変わっていても、子供のする事には共通の点が有ると思いました。
 また、先年、岐阜より高山線が開通しての祝賀で賑わう時に、平湯の温泉に行きましたが、このあたりは五千尺の高原地なれば熱帯地方の一種の草であり実である稲すなわち米は出来ず、故に稗を常食にしておられるとのことに、物珍しげにその稗飯を所望したが、あなた方には食べられませんと、恥じろうてか、食べさせてくれませんでしたが、稗の粟おこしを売る家があると聞いて夜中ながら探し歩いて、秩父の宮様がお泊まりになった宿の裏で求めましたが、飴と砂糖で誤魔化されているだけで、ざぐざぐして義理にも美味しいものとは思われませんでした。
 けれどもその昔の、順徳天皇様には佐渡でお暮らしになり、冬が来ると寒さのためにがたがたと震えておいでになるときにも、稗でお粥を炊いてお上がりになり、「かくばかり身を温める草の実を冷え(稗)の粥とは誰が云うらん」との悲しき御製を拝読してご不自由なりしことを思い浮かべ、胸のつまる思いがしました。
 翌朝、台所を見るに、広い板敷きに大きな囲炉裏があって、丁度、山男があぐらをかいて、面桶(まげものの弁当箱)の稗飯を仰向いて、口中にかき込むようにして、食べて居られた。粘りがなく、ぼろぼろするらしく思いました。やがて定期バスに乗らんとせしに、今朝の寒さで油が凍り、車が動かないとのことで、大勢の人が朝日で車体を温めるために、日の照る方へ押しているので、車の出るのは何時のことやらと、霜を受けて一入り美しい美観の紅葉に心惹かれて、つい遠くまでぶらつくに、時に大声で呼んでいるので、引き返して見ると、はやお客さんは席に着き、発車直前なるに驚いた。すんでのことにおいてきぼりを喰うところであった。
 それにしても太陽熱の偉大さを今更ながら有り難く思いました。晴れ渡る秋の空、錦に勝る山々を迎え見送りながら、車は一路高山指して走る。時に車は急に止まった。車の左側に老婆が車をよけていたが、運転手と何やら話している。思うに高山に行ったら、何か買うて来てくれと、頼んでいるらしく、老婆は大きな袋を背にして、袋の口を手で握ったまま、財布からお金を出していたが、車を待たせていると思うために心がそわつきしものならん、突然袋が後ろへずり落ち、下の草むらに何やらすっかりこぼれてしまった。老婆はびっくり、運転手は、嗚呼、おばんえらいことやったなと、一寸慰めの言葉を残して、車は走る。
 運転手の言うには、昨夜より谷間の水車で稗を搗いていたのを掻い出して、我が家へ帰る途中の出来事で、可愛そうに、一年かかって作ったものを、家に帰ったら若い者にえらく怒られるやろうと聞いて、車内の一同も可愛そうに気の毒なことやと言わず語らず、思いは同じ様であった。
 高山に近づくに従い、稲田には黄金の波を打たせていた。紅葉もこれからというところであった。
 同じ飛騨の国でも平湯と高山ではこうも違うものかと思いました。平家でなくば人でなしというた平家一族も生きんために逃れ住んだと言われる白川方面に行っても暮らしは同じ様でした。
昭和三十三年十月十七日

 『明泉寺谷の水車と道筋の変化』

 昔は現在の滝見橋よりおよそ一丁目ほど下、即ち、長田より登り来て、明泉寺の寺の角を左へ曲がり、丸山へ登らんとする右側下は、今でも恐ろしいような大渓谷で、ここは苅藻川の中間くらいにあたるが、現在の楠の大樹の下位の所に、一個でも何十人もかからねば動かぬような大きな石を積み重ねて、石垣を築き、大堰堤(イデ)と称しておりました。
 出来た当初は滝見橋の近くまで、湖水かダムのようで、青い美しい水を湛えておりましたが、いつということもなしに大水の出る度に、砂を抱いて、ダムは砂場と変わりましたが上から下に向かい、左側の山の中腹に穴を開けて、明泉寺谷の水車へ水を送る水路の取り入れ口としておりました。
古人の苦労されたことは大変なことで、この穴を水車に入り用なだけ、水車の水番が気を付けて、見に来ていました。この役は水を"仕掛けに行く"とか"仕掛けてこい"と言う
ておりました。このようにして常に注意していないと、水が多きに過ぎては溝や水車が痛むし、少ないときは車が回らない故に、取り入れ口を守る水番はなかなか責任が重かったものです。
 豪雨の時は特に水を切って加減をせねばならない。余分の水はイデから落ちて、常はせせらぎなるも、一旦、大水となると、ゴーゴーともの凄い大瀑布となり、谷間を振動させ、恐ろしく思いました。水の量や色を見て、雨も止み天気になるだろうと、胸の動悸を和らげたものでした。大げさなようですが、真実のことです。
 近くでは昭和十三年七月五日の大水害は特に酷く、大変な被害でした。橋は全部流されて、明泉寺や丸山へ帰らんとする人は、向こう岸の天神町を滝見橋まで登り、やっとこちらへ渡り、我が家へ帰ると言うようなこともありました。
 それはさておき、水門より取り入れた水はしばらく水路を流れ、間もなく大樋で右側の崖に渡り、現在の道路の左下の溝を流れ、2丁目位のところで絶壁となり、溝が作れない故に、再びトンネルとなり、現在、理髪所の裏から一丁目へ下る左脇の坂道を降りるときに、後を振り向くと、二階建ての家の下に穴が見える。最近、コンクリートの柱を立てて、穴をふさいだようになったが、夏は木の葉の茂みで見えず、寒い時分ならば見えております。この穴を抜けた水は道路を横切り、右側へ出たところに水を調節する溝が道路に沿うて坂を下り、不要の時はこの溝に放水したのです。
 ここは明泉寺橋より悪い坂道を荷車を引く人があえぎあえぎ登り切ったところで、喉が乾くと、この清水で口中を潤し、元気付けたものでした。
 冬にはこの坂道を上る左側の放水路の飛び水は枯れ草などに凍り付いて、水晶のようで、自然の氷の花の美観は限りなく、昔懐かしい田舎道でした。
 これまでの二ヶ所のトンネルは何のために開いた穴だろうと、今後知る人もなく、永久に謎の穴となるだろうと思う。ただし昭和十八、九年ごろ大空襲より逃れようとて身を守るために売られた穴の後はいたるところにたくさんあるも、この水道のトンネルのごとく長くて貫通した穴は他に見られない。後の世の人々が不思議な穴と思うべし。さて引かれてきた水は現在立ち並ぶ家の中間を流れること半丁くらいで、西の美の谷川より引いてきた水と出会い合流して左下へ滝のようになって落ちる水を受けて大きな水車は案外早くも独特の音をたてながら回る。古木水車の表入り口は明泉寺橋より登る中間にあって古い藤吉車と称し、藤田藤吉という明泉寺村の人が回しておられた由なるが、私の子供のころには兵庫の切戸町で前田辨吉という親方が回しておられた。したから登り来ると、左側にこの水車があって、この水車を左側に見ながら登るのが現在の広道の前身で、またこの水車を右に見ながら水車の西をこの道をしばらく上り明泉寺村を右下にあると思いながら笹や樹木が頭上へ生い茂る心地の悪い道を通り抜けると現在の堀切へ出ていく。弁天山のその道を大道と称しておりましたが、現在では跡形もなくなりました。この水車の前の角に右は大日左は太山寺道と道しるべが立ててあり、現在は明泉寺の境内に保存してあります。前田の水車で一役済ませた排水はのーのーとして音もなく豊かな水量となって現在の市営アパート住宅の縁を流れ、大きな樋で美の谷を渡り、下の車すなわち兵吉車にかかり、勢いよく水車は回っておりました。この水の一部を台所に引いて、飲料水も使い水も兼ねていた。それほど水は汚れを知らずきれいでした。各水車の水の落ち口には水神様がお祭りしてありました。この水車を伝まはんの車というておりました。すなわち中島伝兵衛という方が親方で次が石松兵吉と続いておりました。私の子供のころはちょうちんをぶらぶらさせながら、今日は上の車、今度は下の車と風呂をもらいに行きよりましたが、帰りにはお墓の前を通るのが怖くて胸がドキドキでした。寒い時はちょうちんを股の間に挟んで大金玉が歩くようで、遠くて道も怖いけれど、村でいただく風呂より車になればお湯が豊富でとても嬉しかったものである。伝まはんの車の風呂場の前の川岸には南天の大きな株がありました。太いのでなく細いのが百本近くもあったように思っております。また水車で搗く米の副産物である粉米は一升六、七銭でしたが、鶏のひよこにやるのやというてよく買いに行きました。子供ながらも粉米を買うのは恥ずかしく思っておりました。持ち帰った粉米を洗いながら、揺すって砂を除かねばならないし、寒い時分には冷たくて大変な苦労でした。なかなか粉米と砂とが離れないので、捨てると大目玉をいただくし、粉米のより洗いにはより泣いたものです。伝まはんの車を回した大量の水が初めて本流に流れでたところに、ヒノキの丸太と竹を縦横に組んで作ったイデがあり、水面を高く平らにして、向かい側、すなわち長田へ下る道の傍らに取り入れ水門があって、道路の下をくぐって水は現在道路の左側に立ち並ぶ家の裏や崩れの鼻の山すそを曲がりくねりながら、流れ流れて現在勝光寺というお寺の下くらいなところに下の車というて兵庫の西宮内の北本作太郎という人の車があって、ために北作車ともまた、最後は打越鶴太郎という人が回しておりましたので新車ともいうておりました。現在、川向こうに百崎とてビオフェルミンの社長の家あり。この水車を回した水は道路の下を、右側の深い深い溝に流れ本流に合流して、お宮の裏すなわち長福寺の西側に再びイデを作り、道路わきに水門があって、本流の一部を引き入れた水は道路下を左へ現在宮川校の前を長田校、その前は大きな藪であった。すなわち左はキツネやタヌキの巣のような藪に添うて深い溝が流れ、溝に沿って、道路があり、右側はお宮で杉の丸太で垣が作られ、昼でも心地が悪く、大風が吹く時はごーごーとすごい音と共に枯れ枝が落ちるから危ないし、夜は真っ暗闇なれば垣の丸太を手や竹で触りながら、溝に落ち込まぬように用心して通るときの怖さ恐ろしさ、鼻をつままれてもわからぬ暗闇で人に出逢うたときの恐ろしさは腰を抜かさんばかりでした。

 『あとがき』
顕道和尚の二十五回忌を記念し、遺稿集第三輯をまとめさせていただきました。不便で厳しい生活を昔の人は、過ごしてきたのだなあ、と今更ながら、思います。
 昔は、貧しくてもみんなそれなりに、幸せだったと簡単に言いますが、水汲みの苦労一つとってみても、水道の完備している今日の有り難さを思わないわけにはいきません。
 水汲み、米搗き、薪割り、火炊き、こうした生活の基本労働をしなくなって久しくなりました。
 お化粧したクラゲのような、現代日本の若者を見ていると、どこへ漂って行くのだろうと、心もとない気がします。
 今の若者はなどと思うのは、確かに年を取ったせいに違いありません。
 今一度、顕道和尚の文章を読んで見ていただいて、現在を考える一助としていただければ、幸いです。

それにしても、このワープロ打ちを、パソコンの音声入力でしたのですが、このことも時代を語っていると思います。

平成十一年九月五日
     明泉寺 住職 冨士玄峰