顕道和尚の知章忌メモ
昭和17年(1942年)
終日曇天雪模様風寒し
寿永3年(1184年)2月7日より昭和17年2月7日は759年(ママ)。
平の知章忌を挙行す。導師は福厳寺閑栖、瀧 宜睦老和尚、維那は明泉寺現住冨士 義孝。
参拝者は知章墓建設者、木村 昇三氏、村上 免喜氏、溝口楳堂氏、神田さわ女。
今や我が国は未曾有の時局に遭い、天皇陛下には暴戻非道の米英に対し、
去る12月8日、宣戦の大詔を御渙発したまうてより明8日が満2ヶ月の間に、全世界を驚嘆せしめたる
昨今の事とて流石に日本内地も物資不足の折りとて、何の供養も出来ず、木村氏持参の饂飩を頂戴、
皆大満足で、6時頃散会す。2月7日は何時でも寒い寒い。
昭和29年
源平の戦いあって丁度750年になるとて木村昇三氏は垂水に住まう生田調二氏と婦人及び神戸史談会員二人、
都合5人で7日ならで御逮夜の6日に参拝された。
17年に比すれば大変な変化に今更ながら驚く。即ち現在生存して居る者は木村氏と小生で、他は皆今は無く、
國も20年8月15日に悲しむべき敗戦となり、丸8年の午歳の春を迎えたるも、日本は申すに及ばず全世界は
求める平和は迎えられず、不安な毎日を送り迎える昨今なり。
忠義孝行の影薄らぐ世に木村昇三氏の如きは珍しき方なり、源平一ノ谷について長講一席拝聴す。生田夫婦は又珍しき
楠公崇拝なり。暗くなって散会された。 顕道65才
昭和34年
7月19日日曜日
神戸史談会開催さる。午後1時より5時まで。
本堂にて会長原口市長は不参、副の川辺賢武氏、宮川氏を始め、本年80余才の岡部又蔵氏、平野信三氏等々、37,8人
来られたが、知章卿に深き因縁ある木村昇三氏の不参は淋しく思うたが原稿を宮川氏が代わって知章の講演あり。
次いで某大学学長近藤氏が死人の解剖心得に付いて話された。自分は初めに明泉寺及び大日如来と牛に付いて
長講一席、尚求められて大机の上に涼味を呼ぶ為に飾って居た西湖の蘆と寒山寺の鐘、
及び虎丘寺の日干草(ひでりそう)について追加講演。物凄い今日の暑さに一同の笑いと涼風を起こす。
今日の暑さには閉口したが5時頃散会。 南支及び紅江各地に大水害あり、大変な事なり。
顕道義孝72才